2014年04月18日

東方部隊とは

またも久々なうえに、いくつか記事書いておいて超今更ですが、そもそも東方部隊って何?という事を書いてませんでしたねw

東方部隊(Osttruppen:オスト・トルッペン)とは、ソ連を構成する諸国の人員により編成されたドイツ軍の戦闘部隊です(非ソ連圏の東ヨーロッパ義勇部隊は東方部隊ではない)。
以前書いたシューマはSS管轄の治安維持部隊であるため、別組織です。
ロシア解放軍やコサックなどのロシア系とバルト三国の組織・部隊は東方部隊に分類されない場合がありますが、広義的に東方部隊というくくりとします。

構成人員の経緯は様々ですが、最も割合が多いのは独ソ戦がはじまった1941年6月からの戦闘において、ドイツ軍の捕虜となった元赤軍の将兵です。
赤軍は開戦早々に国土と訓練された将兵の多くを失い、ソ連各地から片っ端から徴兵しまくって、ロクな装備も訓練もないままドイツ軍にぶつけて消耗するピクミン方式の戦術で、更に膨大な損失を出したのは有名でしょう。
が、強制徴兵され消耗品として投入された当人たちとしてはたまったもんじゃありません。
赤軍に対する反感や失望、それ以前の政策や大粛清でウンザリ。

そして、運良く命は助かるもドイツ軍の捕虜に。
赤軍では戦陣訓よろしく敵の捕虜になることは許されていないため、脱走できてもお先真っ暗。
更に、ドイツの捕虜収容所はキャパがいっぱいなうえに、そもそもロシア人なんて一定数はくたばらせる政策であったため、ブラック企業も裸足で逃げ出す労働環境と飢餓と疫病。

そんななか、赤軍やっつけて新しい国家作ろう!義勇兵募集中!とか言われたら、寝返って当然でしょうw

赤軍に対する憎悪や反発が理由で自ら望んで寝返る者と、帰っても処刑か懲罰だしこのまま収容所いてもそのうち死んじゃうし…という行き場がない故の流動的かつ日和見的な理由の者の二者が殆どw

こういった状況下で誘導され強制された者も大勢でしたが、大部分の寝返りの動機はこんな感じです。
他には、元帝政ロシア軍人で白軍として戦うも、白軍の敗北によりヨーロッパ各国に亡命し、独ソ戦開始に伴い馳せ参じた者、早々にドイツ軍に占領されたソ連諸国(ウクライナやベラルーシ、バルト三国)は反ソ感情が強いため、スターリン・共産主義打倒の他に祖国独立という願いのもと馳せ参じた非ロシア人などでしょうか。

42年7月にはソ連軍の名将アンドレイ・ウラソフ中将がヴォルホフの森の無謀で凄惨な戦いののちドイツ軍の捕虜になり、スターリンやソ連への恨みからドイツ軍に協力を申し出て、打倒スターリン・共産主義のスローガンを掲げて前線や捕虜収容所でプロパガンダ活動を行いました。
東方部隊とは東方部隊とは東方部隊とは東方部隊とは東方部隊とは東方部隊とは
↑降伏や転向を促すビラ。やはり識字率が低いせいかイラストの割合が多かったり、そもそも文字無しのもまでw
私、ロシア語はさっぱりなのですが、さすがにこれは翻訳かけなくてもなんとなくイラストで意味は分かりますw

こんな感じの活動により、一気に投降兵や志願兵が急増。
このプロパガンダ活動には戦後に連邦情報庁長官となるゲーレン、東方部隊の編成問題には、44年7月20日の総統暗殺計画で知られるシュタウフェンベルク(東方部隊は国内予備軍預りであったため)が関わっていました。

ちなみに、赤軍捕虜は終戦までに580万人以上発生したそうですが、うち56%の約330万人は飢餓・疫病・凍死・処刑等で死亡、16%の約95万人がドイツ軍に転向、終戦まで捕虜が23%、脱走して赤軍懲罰部隊かパルチザンに合流が5%だそうです。
95万も寝返って16%…w
まぁ2人に1人死んじゃう収容所いるよりは、将来の不安なんかそっちのけで目先の自由に逃避しますわな…

というわけで、転向を申し出る100万近い将兵を共産主義打倒という共通の目標、および各々の祖国の解放や独立をスローガンに編成が思案されたのが東方部隊。


東方部隊とはまた別で、HiWiや東方労働者というのもあります。
HiWi(ヒヴィ)は HilfsWillige(ヒルフス・ヴィリーゲ)の略で補助協力者という意味。志願補助員という意訳もあります。日本語Wikiは相変わらず…w
東方部隊とは
HiWiの腕章。バリエーションは色々あります。
これは東方部隊とはまた違う組織というか人員で、戦闘要員ではなく土木・建築作業や補給部隊の補助や護衛、運転手、馬番、調理補助、機械整備、物資運搬、雑用係、人によっては死体処理等々…後方における都合の良い召使い(ぶっちゃけ奴隷w)的な支援作業が主です。
嫌がられ煙たがられる作業を押し付ける事ができるため、結構重宝したそうですw
このHiWiの場合は組織ではなく、個人もしくは小グループで投降して自発的に下働きを買って出て、収容所には送られずにそのまま投降先の各師団に名簿外の人員として組み込まれるパターンが多く、義勇兵以上に人数が曖昧…
少なくとも20~30万人(説によっては100万人)が存在したとか何とか。

東方労働者(Ostarbeiter:オスト・アルバイター)というのは、占領したソ連圏(多くはウクライナ人)の徴兵されなかった者や女性を半強制的にドイツ支配下の各地の工場勤務のため動員しているもので、純然たる労働者です。
これは300~500万人近く存在したんだとか。

いかに東方部隊や東方労働者がドイツを影で支えていたことか。
・・・・・・・・・・・・・とはいえ信用できないってのが本音w
無論というかなんというか、ヒトラーはさいしょ劣等人種であるソ連圏の投降兵を自軍に編入することを許可していませんでした。
しかし、中央軍集団のシェンケンドルフ大将が独断で小規模の義勇部隊の編成を決定。
41年9月、最初に編成されたのはコサック部隊。
旧帝政ロシア派が多く革命期に白軍の中核となっていたため(他にも理由ありますが)、ソ連政府から弾圧されていたコサックは、開戦後すぐに連隊や部族まるごと離反するパターンが多く、機械化部隊とは違った騎兵ならではの機動力や戦闘力を活用し、後方の鉄道や補給施設の警備任務につきました。

これは一定の成果があり、それなりに役立つ存在であると一応は証明できたため、正式に東方民族の義勇部隊を編成すべきとの要請が出て、42年はじめヒトラーは大隊以下の規模で各級指揮官が全員ドイツ人であればとの条件付きで渋々これを認めました。
これにより東方部隊の本格的な編成が始まり、西ヨーロッパの義勇部隊のように国家・民族・人種ごとに振り分けられました。

ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトビア、リトアニア、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア、北カフカス、トルキスタン、ヴォルガ・タタール、クリミア・タタール、カルムィク等々…様々な国家・民族・人種の部隊が創設されます。
大半の部隊は陸軍の管轄で大部分が歩兵でしたが、一部は武装SS・海軍・空軍に編入されました。
海軍や空軍の場合、船乗りやパイロットも存在しましたが、基本的には基地警備や高射砲部隊の補助員です。
ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・バルト三国およびタタール等の一部でSS・警察管轄のシューマ大隊が作られましたが、最初にも書いたように別物組織です。また、シューマ大隊の一部はのちに武装SS義勇部隊となっていきます。
(まぁコサックや一部カフカス系部隊は44年末~45年始めに武装SS 管轄となりますが。)

東方部隊とは東方部隊とは
各東方部隊の袖章や階級章等の一覧。(

部隊編成にあたり、各級指揮官を全てドイツ人にせよとの総統命令でしたが、ただでさえ下級将校や下士官が不足しやすい戦時には到底不可能な要求であったため、可能な限り将校・下士官にドイツ人を充てつつ元将校・下士官だった捕虜を、再教育の後に不足分の指揮官職に充てていました。
大半の東方部隊は大隊規模で運用されるため、大隊指揮官と中隊・小隊・分隊指揮官の半分前後はお目付け役も兼ねドイツ人および民族ドイツ人がつき、あとの指揮官及び兵員のほぼ全ては義勇兵といった構成です。

連隊以上の規模での編成も存在(コサック軍団や第162トゥルク歩兵師団、45年編制のPOA師団等)しますが殆ど行わず、やはり基本は大隊規模で、陸軍のドイツ人1師団につき1〜2個(最大3個)大隊をなるべく別々の連隊に振り分けて編入し、万が一反逆した場合に鎮圧しやすくして備えています。
単一民族の大規模部隊編成は士気が向上するものの、民族意識や独立意識が高まって危険でありコントロールが難しいという理由もあるんだとか。

部隊名はそれぞれの国や民族の名前が入ります(例: Georgisches Infanterie-Bataillon 822→第822グルジア歩兵大隊)。
が、分類できなかったのかは不明ながら、単に Ost-Bataillon 〇〇〇 のような番号のみで国・民族名無し部隊も結構あります。


こうした東方部隊はソ連打倒のため結成したものの、信用の問題から大部分は最前線ではなく、後方における警備やパルチザンとの戦闘に投入する程度でした。
43年7月のツィタデレ作戦時には戦線外れの防備を担当していたごく一部の東方大隊が反逆・脱走したため、最高指令部は作戦失敗の一因は端から信用できなかった東方部隊のせいでもあると責任転嫁。
ヒトラーは激怒しましたが、『裏切った東方部隊が作戦失敗の一因であり、東方部隊の全てが悪いし疑わしい』という怒りではなく『一体何故、私が知らない内に我が軍にそれ程多数の東方部隊が存在し、大量に投入されているのか』という点で怒ったようですw

そして、東方部隊全てを武装解除し、東部戦線から外して占領下の西ヨーロッパ諸国の炭鉱で強制労働にせよと命令。
しかし43年中盤の段階で、訓練が終了し東部戦線各地に分散展開する東方部隊は50万人以上いたため、流石に全て武装解除は色々と無理。
それ以前に、そんなことしたら反感を抱いて、ドイツ国内や占領地で労働させている東方労働者たちも含めて一斉蜂起されかねません。
何とかヒトラーを説得し武装解除と強制労働の命令は撤回させるも、殆どの部隊は西ヨーロッパでの守備や防壁建造、もしくはユーゴやイタリアでのパルチザン掃討などの後方任務にあたらせ、最前線でソ連正規軍との戦闘には投入しない方針に。
というわけで、殆どの部隊はソ連正規軍と一戦もせず後方に下げられました。

元から扱いが雑だったものが更に扱いが悪くなり、44年のノルマンディー上陸以降の西部戦線では時間稼ぎのための捨て駒として磨り潰されます。
フランスに駐屯する東方大隊は200個近い数だったんですがね…w

Wikiにもありますが、先程述べたように恨みのあるソ連軍を倒すためor帰れるとこがないからなし崩し的にといった理由等で東方部隊に入ったのに、フランスでドイツ軍のために特に恨みもない米英軍と戦うなんてたまったもんじゃないので、元々士気がドン底まで下がっていたのもあって米英軍に次々と降伏。

ただし、勇敢に奮闘する部隊もありました。古いながらも参考になる『イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~』という書籍にあった一例には、粘り強く抗戦するロシア人大隊を包囲した米軍が「いま降伏すれば、すぐ祖国に返してやる」と呼び掛けたら、より頑強に抗戦したんだとか。
生き残ってソ連に戻されたところでソ連政府に許されるわけがなく、粛清されると覚り絶望してがむしゃらに戦ったのでしょう…w


東方部隊は各地で赤軍の報復を恐れて最後まで戦ったり、ひたすら逃げまくったり、反乱起こしてドイツ兵をぶっ殺して何とか赦しを乞おうとしたり、全てを諦めて投降したり。
西部戦線にいた部隊は、西側に降伏すれば助かるという希望にすがって米英軍に投降。
しかし、西側はソ連出身の反逆者引渡し要求にOK出していたので、気付いたら赤軍に引渡されていて絶望のあまり自殺する者も少なくなかったとか…
ほんの一握りが様々なツテで西側への亡命に成功しますが、大半は失敗しています。
戦後、赤軍の捕虜になったり西側から引渡された東方部隊はじめ、枢軸国側に寝返った将兵のほぼ全てが国家反逆罪等で有罪となりました。
一部の運の良い者は国外追放となるも、大部分は処刑もしくはシベリアでの労働刑。
非公開で弁護人なしで略式の即決裁判が殆どで、ソ連にとっては消し去りたい存在であるため、どれ程の数の『裏切り者』が処分されたのかは未だ不明。100万人単位で存在していたにも関わらず、歴史から抹消されました。
東方部隊とは
↑絞首刑となったウラソフやクラスノフはじめ対独協力の指導者たち。
シベリアに流刑となった集団で、スターリンの死後も生き残っていた者は特赦として減刑され、釈放されたそうですが、いったいどれ程生き残ったのか…w
近年になって彼らの行動を見直す風潮も少なからずあるようですが、今だ反逆者、裏切り者のレッテルを貼られています。


歴史の波に狂わされた、哀れで惨めな末路です…w
めでたしめでたし()





  各国・民族袖章
●1枚目(左)。
16,トルキスタン 1st K
17,トルキスタン 2nd K
18,トルキスタン 3rd(装着例滅多になし) K
19,アゼルバイジャン 1st K
20,ロシア解放軍 R
21,ロシア解放軍(バリエーション違い) R
22,ウクライナ解放軍 R
23,シベリア・コサック R
24,テレク・コサック R
25,クバン・コサック R
26,ドン・コサック R
27,ウクライナ(不採用?) R

●2枚目(右)。
5,ドン・コサック第1師団 R
6,ロシア(不採用?) R
7,アルメニア K
8,カルムィク(装着例なし?) K
9,ヴォルガ・タタール 2nd K
10,クリミア・タタール(不明) K
11,ウクライナ解放軍(バリエーション違い) R
12,第1ロシア国軍 R
13,テレク・コサック(初期のバリエーション) R
14,北カフカス K
15,ヴォルガ・タタール 1st K
16,クバン・コサック(初期のバリエーション) R
17,グルジア K
18,ヴォルガ・タタール 3rd(装着例なし?) K
19,アゼルバイジャン 2nd(不採用?) K
20,間違い(文字がアルメニアになってますが、ほんとは北カフカスの初期バリエーション) K

古いイラストのため、あまり正確ではありません。
国家・民族袖章の装用位置はRはロシアスラブ系で左袖、Kはカフカス系で右袖。どちらもすべて上腕装用。
ただし、カフカス系はまず確実に右袖装用ですが、ロシアスラブ系は所属部隊(連隊等)識別のため右袖装用の場合があります。

ちなみに、2枚目下半分の階級章はカフカス系義勇部隊向けに考案されたものですが、採用されず終いでした。



参考
http://en.wikipedia.org/wiki/Ostlegionen
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Gliederungen/Infanterie.htm
http://www.wehrmacht-awards.com/forums/index.php
http://www.axishistory.com/
http://reibert.info/#drugie-formirovanija-i-armii.24
イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~





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