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Posted by ミリタリーブログ at

2017年04月22日

トルキスタン義勇部隊

どうも、お久し振りです。
3年ぶり?の凄まじく不定期な更新ですw

今回はトルキスタン義勇部隊について。
相も変わらずまたクソ長文なりました。
何枚かの写真はPC版だと画素が荒くなるので、縮小サイズとオリジナルサイズ載せてます。


そもそものトルキスタンについては、まぁwikiを参照頂きたいと思います。

ぱっと見でわかるように、東方部隊の中でも結構複雑な民族構成です…
カタカナ表記は言い出したらキリないので、wiki先生に倣って広義的な国というか地域としてはトルキスタン、民族としてはテュルクという表記にします。

以前の東方部隊全般の解説で書いたように、ドイツ軍には様々な国家・民族の部隊がありますが、ソ連に組み込まれてある程度国境線が明確になったとはいえ、広範囲に分布し曖昧で複雑な民族の混じりあったテュルク民族は若干大雑把に纏めた気がしないでもないです。
とはいっても、民族としての源流が近しいタタール人やカルムィク人は別の民族部隊として分類して編成しています。
タタールやカルムィクも含め、テュルク民族は東アジアから流れてきたモンゴル系民族が広く散っている地域のため、モンゴロイドな黄色人種が多いのが特徴です。

トルキスタン義勇部隊は、正式な戦闘部隊として第450、452、480、781、782、783、784、785、786、787、788、789、790、791、792、793、794、811、839、840、841、842歩兵大隊、および第I./29、I./44、I./76、II./76、I./94、I./100、I./295、I./297、I./305、I./370、I./371、I./384、I./389野戦大隊の計35個大隊。
これらのほかに、いくつかのトルキスタンの名を冠していない大隊、いくつかの建設大隊(通常工兵と違って築城・構築等が専門の大工さん部隊)も編成されました。
戦闘部隊のうち、いくつかの大隊は後述の第162歩兵師団(トゥルク)に編入され、他のいくつかは43年末から武装SSの管轄となりました。
歩兵大隊と野戦大隊の違いは以前の記事末尾あたり参照。
トルキスタン義勇部隊はカフカス系東方部隊の中で最も規模が大きいため、主にフランスやオランダやイタリアで西側連合軍相手にそこそこ戦っています。
まあパルチザン相手がほとんどですが。


まずは袖章から。
トルキスタンはカフカス系部隊に分類されるため、どのタイプも右袖上腕着用です。

42年初頭に採用されたトルキスタン義勇兵の袖章。
テュルク民族はイスラム教徒が大半であるため、モスクが描かれてます。

下には ” TURKISTANの ”文字。
上には ” Biz ALLA Bilen ”トルコ語で 『 Biz Allah Bilenleriz :我らはアッラーと共にあり 』 を意味する表記。
ドイツ軍のベルトバックルに刻まれている 『 GOTT MIT UNS : 神は我らと共にあり 』 はキリスト教の神であるため、ちゃんと『神(キリスト)』ではなく『アッラー』になってます。
まぁ、バックルはドイツ軍の『神』が刻まれた物をそのまま使ってますがね()
ただ、アッラーはドイツ語でもトルコ語でも綴りは ” Allah(Allāh) ” なのですが、どこで間違えたのか” Alla ” に、 ” Bilen ” も本来は ” Bilenleriz ” という表記ながら短縮化された誤字のまま採用になってますw
BeVo(機械織)タイプのみ存在。
この袖章はマニアの間でファーストタイプと呼ばれるもので、大半のトルキスタン義勇兵はこのタイプの袖章を着用しています。


この次、43年中盤に採用されたのがセカンドタイプと呼ばれる袖章。(これはBeVoと布プリントの両方存在)

トルキスタン地方の伝統的な軍旗を基にした水色とピンクの二色地に弓矢のデザインで、袖章自体の形状が楕円形から他の義勇部隊と同じ盾形になりました。
文字も上部に ” TURKISTAN ” のみ。
これは後述のイタリア戦線に投入された第162テュルク歩兵師団の将兵が主に着用していたようです。
生産数は多くはないようで、写真もファーストタイプに比べあまり見られません。


最後にサードタイプと呼ばれる袖章。

44年中盤に採用。(これはプリントタイプのみ存在)
ファーストタイプのようなモスクを描いた楕円形デザインに戻りました。
ファーストでは ” Biz ALLA Bilen ” だった文字が、旧トルコ語表記になってます。
読み方やちゃんとした意味は存じませんが、『我らは神を信ずる』みたいな意味だそうで。
現存する実物らしき未加工の袖章単体の写真は見るものの、実際に将兵が服の袖に装用しているのは、とある週間ニュースでしか見た事がありません。

あまり知識ない自分が言うのも何ですが、週刊ニュース見てて見つけたこの一瞬(この週刊ニュースの動画は削除されてました…)以外にこの袖章の装用例を見たことがないため、制定年度的に考えてもセカンド以上に少ないごく僅かな使用率かと思います。
ちなみにこのサードタイプ、映画『マイウェイ ~12000キロの真実~』で主人公たちが配属されたトルキスタン義勇部隊で、主人公らをはじめ全員が袖につけていました。

映画の内容や考証はあえて何も言いません()
まぁ妙なB級ロシア映画以外でオストトルッペンが出てくる(それも主人公がオストトルッペン)のは面白いんじゃないでしょうか?(苦笑)


話は戻って襟章。

襟章はカフカス系義勇兵用で、濃緑もしくはフェルトグラウ生地でパイピングの民族色は水色。
形状はSS襟章と空軍襟章の型紙を流用?した2種、装甲科襟章の型紙を流用?した1種、装甲科襟章タイプのものをパイピング含めBeVo(機械織り)で作られたものの計4種。
写真のは濃緑生地ベースの伍長。階級章は以前の記事参照。
ただ、初期は新規型紙らしき台形もしくは空軍襟章型紙の赤い生地でパイピングなしのものが各東方部隊共通襟章として使用されています。
肩章もジョージア(グルジア)義勇部隊なんかと同じで、各民族色のパイピングのついた角型が43年頃に制定されていますが、着用例は滅多になし。
結局のとこ、大半が通常の歩兵科(白パイピング)の肩章を汎用タイプとして流用しています。
パイピング色的に色の近い輸送科(ライトブルー)の肩章なんかも使ってるかもしれませんが、白黒写真じゃほとんど判別不能。
例にもれず、専用徽章を必ずしも全員がフルにつけているわけではなく、襟章は通常のドイツ陸軍のままだったり、袖章すらついてなくてタタールやカルムィクと区別つかなかったり…

ちなみに、この写真がトルキスタン義勇兵とかいう海外サイトもありますが違います。

この人は蒋介石の次男である蒋緯国のドイツ軍時代の写真です。
西部戦線やイタリア戦線で連合軍兵士たちが「日本人のドイツ兵を見た」という話が結構あったりしますが、ごく少数の在西欧日本人留学生なんかがドイツ軍に入っていたのは事実だろうけど、たいていはトルキスタンやタタールやカルムィクなんかのアジア面の義勇兵を見て勘違いしたものです。

これは軍旗のイラスト。

セカンドタイプ袖章のデザイン元。



トルキスタン義勇部隊は、西部戦線・東部戦線・イタリア戦線と主要戦線全てに投入され各地に展開しており、アジア面が多いため一発でゲルマンやラテン、スラブと違うのが分かります。

43年夏頃、捕虜収容所がら産地直送されたところ。

転向してすぐ再教育を受けるところらしく、中隊長(左の中尉)と下士官たちによって順々に整列させています。
被服類も中古品を支給されたばかりで、徽章も元のままで汚い…
中隊長が手にしているのは以前ちょろっと紹介した通訳本の一種。
中隊長の苦笑いした表情と下士官たちの複雑な表情、義勇兵たちの収容所から解放された喜びの表情の違いが見てとれますw


以前使った写真。

右の二等兵の襟章はフェルトグラウに見えなくもないけど、他2人は明らかに赤系です。
左の二等兵は40年型、他は36年型野戦服。袖章は左の二等兵しか着けていないようです。
肩章は左の二等兵が白パイピングですが、他は赤とかの色かと。
服は中古ですが、ベルトがやたらと新品くさいw


42年に編成直後の一連の写真。

義勇大尉の演説。


宣誓。

後ろでマイクで宣誓しているのは多分宗教指導者。
ヨレヨレでサイズまちまちの中古服蛮族集団。
左袖にトレッセつけてる兵がいますが、初期の階級章もしくは役職章です。


軍旗と軍楽隊。

まだなんとか軍楽隊は存続してます。


爽やか笑顔の伍長。

顔まわりしか写ってませんが、典型的な徽章例。
襟章はおそらく赤ウール生地のもので、肩章パイピングも赤かそれに近い濃い色。


44年はじめの東部戦線での1枚。

これも典型的徽章の伍長。
徽章が結構鮮明に見えます。
こちらは先のと違って濃緑生地の襟章です。


これは北フランスでの写真。
ファーストタイプの袖章をつけています。


3名に見られる階級章は変則例のため、縦線1本で上等兵です。
前列右から2番目は40年型、他はオランダ改造野戦服を着ています。

一応これが本来の無改造のオランダ軍服。

立襟、ダブルカフス風の袖口、ドイツ軍服に比べかなり下気味で隠しボタンの胸ポケット、腰ポケットなし、前合わせ7個ボタン、ベルトラインから上と下に別れたパーツ別け、肩章は着脱不可な全周縫い付け。

これは改造服(ロシア解放軍仕様)。

襟をドイツ軍の40~42年型野戦服等の製造ラインから流用した折り襟に交換、肩章を取り外してドイツ式の着脱可能な肩章用ループ式に改造し、胸ポケットも隠しボタン式から露出ボタン式に、元々のザイテンハーケン(ベルトフック)は外してドイツ軍タイプを使用できる用専用穴と内装サスペンダー(42年型以降のような服に直接縫い付けるタイプ)を追加、全てのボタンをドイツ軍のものに付け替えています。
また、腰ポケットを増設しており、ドイツ軍の40~42年型野戦服等(写真では42年型)から流用のポケットを付けていますが、これは付けてないタイプも少数存在。
オランダ改造野戦服は、軍服不足解消のために大量に投入された外国軍服の中でも特に多いもので、上記改造を施した上で普通のドイツ陸軍はじめ様々な東方部隊で多用されています。
占領した外国軍服の中でもともと一番色が近く流用しやすいため多用されましたが、生地色が微妙に違うので初期のドイツ軍ウールであっても色味に差が出るため、白黒写真でも生地色の差がわかります。


これもオランダ改造野戦服。

44年フランスでの2人の二等兵。ズボンも外国軍のらしきものを履いてます。


これは以前も使った中隊先任下士官の写真。

階級は伍長。
襟章が変に見えますが、これは以前も紹介した通常のドッペルリッツェンの上から直接トレッセを縫い付けているパターンなため。
本来なら先任下士はドイツ人が務めるものですが、数が揃えきれないため、義勇兵でもある程度は存在。
伍長で先任下士ってのは珍しいですが。


イタリアの写真館で記念撮影したと言われている4人の義勇兵。

海外サイトでは彼らは日本人だの朝鮮人だの言われてますが…w
それはともかく、セカンドタイプ袖章を着用。服や徽章のばらつきが一目でわかります。
前列右の兵以外は胸のアドラー(鷲章)が通常のドイツ軍のものでなく、東方アドラーといわれる東方部隊用のアドラーです。

ソ連圏の劣等人種がドイツ軍のアドラーをつけることを許せなかったヒトラーは、42年に東方民族によるドイツ軍アドラーの装用を禁止し、東方民族用の徽章を作らせました。
が、実際は色々面倒だし無理があるので、結局はドイツ軍アドラーそのままだったり、ドイツ軍アドラーひっぺがして無徽章な場合が大半でした。
そのため、東方アドラーは生産数が少なく支給数は更に少数で、義勇保安部隊やコサック、トルキスタンのごく一部で使用されてます。
ちなみにこの東方アドラー、本来は上下が逆です。

↑正しい向き。
この徽章をつけた写真を見る限り、全てが通常のドイツ軍アドラーの羽の向きに合わせて縫い付けられてしまっていますw


これは砲兵伍長。後述の第162テュルク歩兵師団所属。

先と同じセカンドタイプ袖章を着用。よく見ると縁を裏に折り込まずに原端の周囲をそのまま縫い付けてます。
他の義勇部隊含め、この縫い付け方法はたまに見られるパターンで、単に縫付工程短縮のためにやっているため。
(徽章は個人での縫い付けではなく、中隊なり大隊本部の裁縫や加工の担当班が縫い付ける)
服は占領したフランスから接収した青味の強いウール生地を使用して東方部隊用に製造された、ギムナスチョルカ(ロシアのプルオーバー式の服)型の野戦服。

これもロシア解放軍仕様。
ロシア解放軍とトルキスタン義勇部隊に一定数が支給されたらしく、写真でもたまに見られます。


ドイツ人の大尉と下士官から点検をうける義勇兵中隊。

パッと見は通常野戦服に見えますが、これも上の写真と同じギムナスチョルカ型野戦服を着用しています。
ただこれは腰ポケット増設したバージョン。ずいぶん下に腰ポケットがついており、縫い位置も微妙にバラバラ。
何人かは襟章がついていない模様。
ドイツ人大尉と下士官の野戦服との色合いもだいぶ違います。
それにしても緊張感もクソもない体たらく…


兵舎の入口での一コマ。

帰営した際の身分確認なのか、ゾルトブーフらしき身分証を守衛(ドイツ人?)に提示しています。
右袖が見えないので袖章の有無がわかりませんが、標準的な42年型野戦服。襟章はそのままで、肩章だけでなく左袖にも上等兵の階級章といった、たまに見かけるスタイルです。
両者とも肩章にトレッセとは違う線があり、色も違うため、中隊の識別紐か何か?


フランスでの記念写真の一枚。

かなりくたびれた中古の40年型野戦服で、ファーストタイプ袖章を追加した以外は元の使用者が使ってたままの状態でしょう。


44年フランスでの1枚。

ドイツ人下士官の記念写真で、左端の伍長は袖章からしてタタール義勇部隊所属。その右隣がトルキスタン義勇部隊所属。
他2人は袖章が確認できませんが、左端以外は歩兵突撃章に戦傷章、2級鉄十字に東部戦線従軍章とベテランさんがた。
やはり義勇部隊の下士官は通常部隊よりも統率力を求められるため、メンコの多い古参や戦歴のある者です。


44年1月にノルマンディー海岸を視察中のロンメル。

左の眼鏡かけた中尉がトルキスタン義勇部隊のドイツ人将校。
シワや影のせいかもしれませんが、チンコードつけたクラッシュキャップや肩章の兵科色が白や明色に見えない…


ロンメルの閲兵を受ける義勇兵たち。

ボタン数からして、ほぼ全員がオランダ改造服。
ガスケープなんて持ってますw
オランダ改造服は共襟や濃緑襟が混在し、ヘルムも16~42年型らしきものが混在。


ノルマンディーで捕虜となった兵士。



7月に英軍第51ハイランド歩兵師団の捕虜となった伍長と二等兵。
伍長のほうはウズベキスタン出身のFazlitdinovという人だそうで、戦後にソ連へ引き渡されたそうです()


8cm迫撃砲の操作訓練中の一枚。

弾薬手は36年型コート、照準手は40年型コートでどちらもP37ベルト、班長は単色アノラックを着用し、全員が16年型・18年型ヘルメットです。班長はPPSh41らしき銃を下げてますが、不鮮明。


訓練中の一枚。

写りきってないですが、中隊での訓練らしく、監督している軍曹の伏せの号令で咄嗟に伏せたところ?
被服類が凄まじいバラつきかたです。


よくわからない集合写真


前列中央の制帽被った人物は党関係?の組織なのかもしれませんが、党組織は門外漢なのでさっぱり…
いかにもなモンゴロイド系とスラブあたりの血が入ってそうな顔つきがよくわかります。
野戦服は36年型から43年型にオランダ改造服等バラバラで、袖章の有無もバラバラ。
一番左端の伍長は空軍のベルトバックルをしていますが、これは東方部隊でたまに見られる例。空軍ヘルム被ってたりする例もごく希に。
まぁそれ以上に、その伍長の右隣の二等兵は矢印にある通り、SS略帽を被っています。ただ、他の被服は完全に陸軍のもの。
また、最後列左から2人目の伍長はSSバックルながら、これまた他の被服類は陸軍です(規格帽の帽章も髑髏ぽく見えなくもないですが不鮮明)。
これは、後述のSSトルキスタン部隊の写真の可能性があり、一部将兵が部分的にSSの装備・被服を支給されたためです。
大抵の場合、在庫や補給事情等の問題で帽子類とベルトバックルおよびSSアドラー程度の部分的なものしか支給されない(というかそうするしかない)ためで、階級等関係なく被覆損耗による更新の際などに、同じ分隊内であっても差異が発生してしまうようです。
これは陸軍や警察の所属から武装SSに移った他の義勇部隊(コサック等)にも共通します。
(だから党関係の人がいる?)


将校・下士官の集合写真。



並んで座った義勇下士官(右端は伍長、他は上級軍曹)を中心に、立っているのがドイツ人の将校・下士官。
何ともいえませんが、義勇大隊の各中隊長(ドイツ人)とその中隊の上級下士官(義勇兵)および大隊本部の一部(ドイツ人)の集合写真?
後列4人の将校の左端の人物は、徽章の形状や制帽のバンドとパイピング色的にSonderführer(ゾンダー・フューラー:特別指導者)という軍属で、技術者・地理学者・民族学者・言語学者等の何らかの技術や知識を持つ、ドイツ人ないし民族ドイツ人の専門家です。東方部隊に限らず、外人部隊においてはドイツ人基幹要員との通訳や宗教・文化の疎通・指導役として多数が配属されており、外人部隊の写真では比較的よく見られます。
残り3人は尉官てことしか分かりせんが、両脇は中尉(真ん中は中尉か大尉?)のようなので3人とも中隊長でしょう。
ちなみに、座ってる6人(右端は伍長、他は上級軍曹)のうち、左から3番目はドイツ軍の略帽ですが、他は全員オランダ軍改造略帽です。


何枚か連続の写真。キャプションでは43年7月。




少尉(右)と上級軍曹(左)を先頭に3列縦隊で行進(2枚目は少尉が抜けてます)。
1列20人ちょっとの若干小ぶりな3個小隊の中隊(キャプションにも第3中隊とありました)。
となると、先頭の少尉は中隊長ってことでしょうか。中尉で中隊長ならわかるけど少尉で中隊長とは…
まあ以前の記事でごちゃごちゃ悩んだ階級章の違い(襟章を口字にトレッセつけた階級が少尉か上級軍曹か)的には、先頭2人は少尉と上級軍曹。少尉のほうだけ略帽に銀モール縁取りついてますし。人員の問題で中隊長なのかな?
見える範囲では上級軍曹以外は36~40年型野戦服着用。上級軍曹はオランダ改造服。袖章の有無がバラバラ。


上の写真の下士官・将校集合写真。

双眼鏡下げてるのが縦隊先頭にいた小隊長と思われる軍曹たち。
やはり袖章の有無がバラバラです。少尉は戦傷章黒がチラっと見えます。
上級軍曹以外40年型野戦服ですが、光源の差とは思えない色味のバラつき。


同じ中隊の集合写真。


隊伍後列にいて見えなかった中隊員たちが映っていますが、かなり濃い色のどっかしらの外国軍服を着ている者が多数います。
やはり袖章の有無にバラつきがあります。


また同じ中隊の写真。

相撲を楽しんでる和やかな雰囲気の一枚です。


別中隊の少尉と上等兵。

少尉のほうは袖章なしの36年型野戦服に制帽スタイル。2級東方メダル銅章リボン佩用。
乗馬ズボンに比してブーツ丈短くてダサいw
上等兵は40年型野戦服にファーストタイプ袖章。


詳細不明の記念写真。

前列座ってる2人は上等兵ながら下士官兵用制帽を被ってます。私費購入?
後列中央2人は襟がブランク状態。
後列左から2人目はジョージア人で、被ってるのは山岳帽?
トルキスタン義勇兵とジョージア義勇兵が所属する第162テュルク歩兵師団の所属、もしくは単に同じ地域に駐屯していて何かの縁でって感じでしょうか。


虫歯ガリガリ削ってるとこw

43年になって、東方部隊の義勇兵もこれらの医療サービスを自由に受けることができるようになりましたw


酒保で何か買ってるところ。

斜めに並べた購入品、見た感じ大きさ・形的に突撃一番のような…w
こういった買い物も、43年になってから東方義勇兵に対しての給与が支払われるようになったことで可能になりました。
つまり、それ以前はブラック企業ドイツ軍において東の民は無給のタダ働きでしたw(まあ収容所で飢えと寒さでくたばるよりはマシでしょうが)
奥の二等兵はオランダ略帽を被っています。


休暇で外出中のグループ。


文官か私服外出と思われる黒スーツの人物とフランスの田舎町を散策中の模様。

同じグループの写真。

ここでも通訳としてSonderführer(1枚目左から2番目、3枚目左端)がいます。
右から2番目の義勇少尉は兵用肩章改造の義勇将校肩章をつけています。
わざわざ外出用に買ったとおもわれる礼装・外出用の兵科パイピング入りストレートズボンを履いており、服も仕立ての勤務服です。


飲酒してるところ。

黒ビールと水もしくはシュナップスで一杯やってます。
教義的には本来はアウトですが、まぁ原理主義でなければOKだからいいのかな。


模型を使った下士官向けの分隊戦術講義か何かの写真。


講義しているのはドイツ人少尉。
少尉ながら一級鉄十字や歩兵突撃章を受けていて20代には見えんので、下士官上がりのベテランさんでしょう。
義勇下士官たちの襟章の生地色が濃緑と赤らしき色の2パターン混在しているのがよく分かります。
ここでも36~43年型野戦服にオランダ改造服でごちゃごちゃしてます。
義勇兵たちのほぼ全員が42年型略帽を被っています。普通のドイツ軍ではなかなか見かけませんが、東方部隊に関しては42年型略帽の着用率がかなり高いです。まあ、転向して選別されドイツ式再訓練されてからの被服支給や配属なんかの時期からして43年ごろなので、ちょうど42年型略帽のまとまった支給時期と被ってそうなので自然な流れなのかなぁと。


また同じ部隊の写真。チェスを楽しむ義勇兵たち。

はたしてチェスのルールわかってるのか否か。
さっきと同じ少尉や下士官が映っています。
後ろにちょろっと映ってる規格帽の下士官は肩章からして通訳のSonderführer。


またまた同じ部隊の写真。

今度はトランプ遊び。
先の写真とで、襟章が変則例の縦線1本のやつがちらほら。


さらに同じ部隊の写真。新聞に目を通す上等兵。

これも襟章は縦線1本。
新聞はトルキスタン義勇兵向けに発行されたトルコ語表記のものです。
はたして識字率はどの程度だったのか…


さらにさらに同じ部隊。

戦闘装備で整列中。
珍しく?中の人間以外はドイツ製の装備で統一されています。


さらにさらにさらに同じ部隊。

サーベル抜いて変なポーズしたおふざけ写真。
これら同じ部隊の一連の写真は後述のSSトルキスタン部隊初期との記述もありますが、実際のところ不明。


捕虜になった集団。

とても臭そう。
もらったレーションを興味深げに見てます。


以下はイスラム教徒部隊であるトルキスタン義勇部隊独特の、イスラムらしい写真。
一応、宗教上の最高指導者である、アミーン・アル・フサイニー(白い帽子のおっさん)。

これはアゼルバイジャン義勇部隊を訪問中の写真。
彼は枢軸側についたイスラム教徒全体の宗教指導者であり、異常なまでに狂信的な反ユダヤ主義者で扇動家。
ユダヤ嫌いなら皆仲間とばかりに故国を追われると枢軸側に亡命。亡命後はドイツ人もドン引きするくらい徹底的にユダヤ人をぶっ殺すようにムスリム系義勇部隊に言い聞かせています。
リンクにもあるように第13SS義勇山岳師団やアゼルバイジャンなどのイスラム教徒部隊の謁兵をしてる写真がちょくちょくあります。

が、ムスリム系義勇部隊で最大規模のトルキスタン義勇部隊を訪問してる写真がありません。
宗派か何かの問題で行ってないのか?
(もしそうならトルキスタンと関係ないですが…w)


サラート(イスラムの礼拝)中の一枚。

白い帽子を被ったウラマーという聖職者(従軍司祭的な人)を先頭に、見た感じ大隊ほぼ総出でお祈り中。


同じくサラート中の一枚。

ウラマーがお説法か何かしてるとこ。
中隊程度の規模のようですが、ウラマーと対面している先頭3名は士官ではなく下士官。


サラートの前後と思われる風景。

皆ファーストタイプ袖章をつけています。
最前列右から1、3、4番目の下士官兵が襟につけている三日月型の徽章が謎。
これはトルキスタン義勇部隊や後述のSSトルキスタン義勇部隊でも希に使用例があるも、着用基準は一切不明。


兵舎の前に作った何かのモニュメント?


外人部隊は自分たちの袖章や国旗を模ったモこの手のニュメント作ってる写真がちらほらあります。


そして…

トルキスタン義勇兵用の墓。
墓板にはしっかり袖章と同じ絵まで書かれ、綺麗な花まで。



さて、以前も触れたように陸軍の東方部隊は基本的に大隊規模で編成・運用され終戦まで存続しますが、例外的に師団規模の部隊が編成されています。
162. (Turk.) Infanterie-Division(第162テュルク歩兵師団)という名で、トルキスタン第I./44、I./94、I./100、I./297、I./305、I./371、I./384野戦大隊(第I./94大隊はのちに武装SSに編入)を中心にアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア人部隊の一部を加えたカフカス地方出身者たちの師団として、東プロイセンのノイハマーにて編成・訓練を開始。43年5月21日にシュテッティンで編成を完了。
同年9月に勝手に降伏したイタリアの武装解除および占領のため、10月から終戦にかけて終始イタリアで米英軍やパルチザンと戦いました。
師団本部はリグーリアやリミニ、ボローニャ等の半島の付け根あたりを転々としていましたが、師団主力はアンツィオ近郊の戦いで意外と活躍。
セニオ戦線で第4降下猟兵師団やRSIのデチマ・マス師団とともに戦い、英軍第2空挺旅団との戦闘で45年2月に壊滅するまで善戦しました。
壊滅後は残りカスが終戦までパルチザン狩りに投入され、5月8日にパドヴァ近郊で英軍に投降。
案の定、師団将兵はソ連に引き渡されました()

まぁさすがに「師団」というだけあって、3個歩兵連隊(第3連隊は44年8月15日に編成)に各1個の砲兵連隊、装甲偵察大隊、戦車猟兵大隊、工兵大隊、通信中隊等を保有。
師団長はじめ各連隊長・大隊長等の基幹要員はドイツ人でしたが、兵・下士官クラスはほとんどが義勇兵という編成内容。
(大戦後半からロシア解放軍やコサック、SS東方部隊等も連隊~軍団で編成されてますが、どれもSS管轄もしくは編成にSSが絡んでおり、陸軍の直接編成・指揮下においは最後まで第162テュルク歩兵師団以外は大隊運用となっていました)

1代目(43年5月13日~44年5月21日)の師団長 Oskar Ritter von Niedermayer (オスカー・リッター・フォン・ニーダーマイヤー)少将。

ニーダーマイヤー少将曰く、そこら辺の普通のドイツ人師団よりよっぽど従順で有能で運用しやすかったそうです。

ニーダーマイヤー少将の閲兵を受ける兵士たち。

少将のちょっと複雑な視線。
ベルトは英軍のP37ベルト、たすき掛けにしてるのは雑嚢代わりのソ連軍ガスマスクバッグ。小銃もモシンナガン。そしてアジア面。
…まぁこんなんじゃね。
対して奥の軍曹さんはカメラ目線でドヤ顔。
全員袖章なし。


こちらは後任の2代目(44年5月21日~終戦まで)師団長 Ralph von Heygendorff (ラルフ・フォン・ハイゲンドルフ)中将。

彼は43年4月から当師団長職拝命まで、東方民族部隊総監(全東方部隊を纏めるドイツ人総監)の職にありました。(後任の東方民族部隊総監はエルンスト・アウグスト・ケストリンク騎兵大将)

ハイゲンドルフ中将の閲兵を受ける兵士たち。


ハイゲンドルフ中将の向かって左の将校は通訳のSonderführer。


44年中旬の1枚。

新聞と何かしらの読み物を渡されたところらしく、立ち読み中。
比較的温暖な時期なため、ドイツ人将校以外は熱帯服や熱帯帽姿、中央の兵(下士官?)に至ってはヘムト姿です。
在庫の熱帯服を渡されても袖章が足りなかったのか、まったく袖章が見られません。


砲撃訓練中の写真。

あまり砲は詳しくないですが、10.5cm軽榴弾砲?かそれに近い10cmクラスの軽榴弾砲の模様。
上の写真と同じく左右の二等兵は熱帯服、真ん中の二等兵は42年型野戦服で、イタリア戦線にありがちな熱帯服に革ベルト組み合わせ。これも袖章がありません。
この砲から発射する通算5000発目の砲弾らしく、記念のペイント入り弾頭を持った装填手はかなりご満悦。


東方メダル授与シーン。

握手している上等兵以外は伍長。
36、42、43年型野戦服が混在しており、奥2人は濃緑ベースの襟章、真ん中は襟章なし、手前2人は赤ないしフェルトグラウベースの襟章。
すっげー嬉しそうw


以下何枚かは43~44年のイタリアで当師団の兵士たちが撮った写真館での記念写真。
冒頭でも書いたように、この師団ではファーストタイプ袖章のほかにセカンドタイプ袖章が散見されます。
超モンゴル系なお顔1。

43年型野戦服にチラッとセカンドタイプ袖章が見えます。
シャツの襟出して前合わせ全開で髪型もアレで、一昔前の田舎の中途半端にグレたヤンキーのようなスタイルです。
袖章以外は標準的な陸軍徽章スタイル。


超モンゴル系なお顔2。

これもセカンドタイプの袖章。
上の写真と同じで、43年型野戦服に袖章以外は標準的な陸軍徽章スタイル。
第2ボタンに2級東方メダル銅章リボン。
濃緑肩章ですが、パイピングが襟章やアドラーとの色味の違い的に、トルキスタンの民族色(水色)と同じ補給科の肩章を流用?


超モンゴル系なお顔3。

36年型野戦服で、同じく標準的な陸軍の徽章スタイル。
かなり鮮明に映った写真のため、ウールの毛の飛び具合がよくわかります。
左袖口の折り返しが気になるけど、腕時計を写すために捲ってるだけ?w


珍しいパターンのドイツ人下士官。

セカンドタイプ袖章。42年型なのか43年型なのかいまいちわからない野戦服。
ただ、陸軍下士官にはなかなかない襟周りのトレッセが無いパターン。肩章にも何らかのモノグラムが付いてるけど不鮮明。偵察(Aufklärungs)のAモノグラム?
下士官ではそんなに多くない1級戦功十字章保持者で、2級東方メダル銀章を胸ポケットフラップ内側から佩用(2級東方メダルではたまにいる佩用方法)。第2ボタンには東部戦線従軍章に2級鉄十字章。2鉄はメダル本体のリングを糸で縫いつけていますが、なんだか形状が変。リボンも赤白黒の配色というより、白黒のみの1次戦型に見えます。まあ40代くらいに見えるから、前大戦従軍時に受章したもの?


装甲科さん。

ドイツ人ぽいけどイタリア黒シャツらしき襟を出すオシャレさん。セカンドタイプ袖章。
パンツァーヤッケでなく43年型野戦服でセカンドタイプ袖章。
戦車突撃章、戦傷章黒、2級鉄十字佩用。


これまた装甲科さん。

これもセカンドタイプ袖章。今度は熱帯服。
2級戦功十字と戦傷章佩用。
襟章はアフリカ軍団装甲科の熱帯服においての通常の装用方法(下襟に髑髏章)でなく、普通にパンツァーヤッケ用の襟章をつけてます。


こっちは本チャンのパンツァーヤッケ着た人。

ドイツ人なんだか外人なんだかわからんです。これもセカンドタイプ袖章。
2級戦功十字佩用。
略帽の帽章が黒略帽用でなく、一般のフェルトグラウベースのもの(これは普通のドイツ陸軍装甲科でも見られるパターン)。
右襟の髑髏章がないのが謎。


これもパンツァーヤッケの装甲科下士官。

今度はまともなパンツァーヤッケ着てます。
これまたセカンドタイプ袖章。
2級鉄十字と戦傷章を佩用していますが、戦傷章は銀章か金章?

ここまでの記念写真、背景の幕がかなり似てる(というか何枚かは同じシワ)ことから同じ写真館で撮られたもののようです。
野戦服の面々は皆肩章の色が白には見えないし、むしろパンツァーヤッケの面子と同じパイピング色に見えるため、もしかしたら同じ装甲偵察大隊(Aufklärungs-Abteilung 236)なのかも。
(ただ、そうなるとパイピング色は騎兵のゴールデンイエローですが、そんな感じには見えない…)


拳銃構えて記念写真。

40年型野戦服を着用した上等兵。
拳銃は外人部隊にありがちなポーランドのラドムM1935。
東の民は記念写真でやたら武器を抜いて撮影したがりますが、いい例です。



で、この師団、トルキスタンとアゼルバイジャンはイスラム教、アルメニアとジョージアは正教という宗教構成で、人種や言語や慣習その他諸々がバラバラなので、彼らを指揮するドイツ人将兵はさぞかし苦労したことでしょう。
(普通の)ドイツ軍では各連隊の駐屯地によって糧食のメニューがある程度違う(郷土料理的な)とのことですが、こんな蛮族も例外ではありません。不完全ながら、義勇兵たちの国や民族向けの糧食を作る配慮はしてます。
ドイツ人は豚肉大好き。色んな食品に豚を使います。やつらは豚の何から何まで食します。
イスラム教徒は教義上、豚をはじめいくつかの動物を食べることができませんし、豚以外でも手順に則った屠殺方法でなければなりません。
↑ 面倒くさそうでしょう?
まぁ下の写真見る限り、実際問題どの程度守っていたかは疑問ですが…


羊かヤギを屠殺し食べてる最中のようですが、普通にぶった切ってます。

靴脱いであぐらかいて食事する、ヨーロッパを感じさせない風景。

スープなんかもラードやら豚肉ぶち込むものが多いから、それなりに苦労したことでしょう。
パンもドイツの所謂黒パンとか、口に合ったのかなぁ…



最後に、武装SSトルキスタン部隊について。
43年11月に陸軍管轄からSS管轄に移されたトルキスタン義勇部隊(第450、480野戦大隊、第I./94歩兵大隊)を基幹に、先にSS管轄となって編成されていたSS武装山岳旅団「タタール第1」(←いつか書く…いつか…w)から抽出されたアゼルバイジャンやタタール等のムスリム義勇部隊の一部を加えて編成し、改編・改名が何度か行われており、名称は
Ostmuselmanische SS-Division(東ムスリムSS師団)
→ Turkmuselmanische Division(トゥルク・ムスリム師団)
→ Muselmanische SS-Division“Neu-Turkistan“(ムスリムSS師団「新トルキスタン」)
→最終的に Ost Türkischer Waffen - Verband der SS (オスト・トゥルキッシャー・ヴァッフェン・フェアバント・デアSS)…SS東トルコ武装部隊とかいう壮大な部隊名になり、44年末には専用のカフタイトルと襟章が制定されます。

↑その専用徽章(上半分のカフタイトルと襟章)。
例に漏れず、制定はされたものの実際には全く使用されず、完全に武装SSの徽章つけた武装SSの服着てたり、先述の写真のように被服や徽章は陸軍のままだったり、陸軍の軍服から徽章を外してSSのものに置き換える程度に留まるというのが実情でした。
また、第162歩兵師団と違い、部隊規模自体も「師団」の名を冠していた時期があるものの、末期ドイツ軍にありがちな終始旅団以下の規模なオチです。

このSSトルキスタン部隊、スロバキアでの編成完了後はベラルーシでパルチザン狩りに従事し、本隊とは別で訓練中の中隊が44年8月のワルシャワ国内軍蜂起で所謂ディルレワンガー師団とともに鎮圧作戦に従事。
それ以降は、これといった大きな戦闘をしないまま対パルチザン戦をしながらスロヴァキアに移動。
この前後に、他のカフカス系SS義勇部隊編成のため引き抜かれたり補充されたりを繰り返し、連隊規模くらいになって45年3月にオーストリア・イタリア国境あたりに移動。対パルチザン戦を継続し、そのまま終戦を迎え米軍に投降。
そしてやはり、ソ連に引き渡されました()

これはSSトルキスタン部隊がサラートをする場面を記録したカラー映像(音声なし)。

先頭白ターバンのヒゲのSS義勇少尉は先述の三日月章を左襟につけています。

こちらは同部隊を紹介した週間ニュースのプロパガンダ映像。

カラーのほうもですが、陸軍トルキスタン部隊の袖章や襟章が一切見受けられません。
アドラー・襟章・肩章(襟章・肩章はつけてない者も多数)や帽子類が全て武装SSのものになっています。

週間ニュースで名前出てますが、どちらも閲兵しているのは Harun el Raschid-bey (ハルン・エル・ラシード・バイ) SS大佐。
1886年オーストリア生まれで、Wilhelm Hintersatz (ヴィルヘルム・ヒンターザッツ)という名前の、純粋なオーストリア人でカトリックでした。
第1次大戦にドイツ陸軍歩兵中尉として従軍し、1916年には大尉で陸軍航空隊所属となり1・2級鉄十字章を受章。
1917年に少佐としてオスマン帝国に軍事顧問として派遣された際、どうもイスラム教に感銘をうけたらしく、イスラム教へ改宗w
戦後の1919年には退役し、全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王といわれる Harun al-Rashid (ハールーン・アッ=ラシード)を倣い、Harun el Raschid-bey という名前に改名(少数派ながら同じような理由で改宗したドイツ軍人はいるようです)。

これは第1次大戦末期の少佐時代の写真。服装とか、なんかもう染まっちゃってる感じが。
第2次大戦までは物書きとして何冊か本を出版。1939年に軍に復帰し、ドイツ陸軍予備役少佐として国防軍最高指令部に勤務。
ムスリムでありナチ党員ではなかったものの、のちに武装SSに転属。44年6月30日にSS少佐、同年10月1日にはSS大佐となり、10月20日にムスリムであることが適任とされたのかSSトルキスタン部隊の指揮官となった異色の人物です。SSでは宗教から離れることを推奨(強制ってわけではない)はしとりましたが、イスラムに改宗した人物でこの人事は面白いですね。
まぁボロ負け確定してるが故に出した、プロパガンダも兼ねたヤケクソ人事かもしれませんが。
とりあえず彼は終戦前に同部隊から異動し、何だかんだで生き残り、戦後は物書きに戻ったんだそうな。


まぁこれは改宗しようが何だろうがドイツ人。
もちろん、非ドイツ人のトルキスタン義勇兵は例に漏れず、生き残りの大半が第162歩兵師団やSSトルキスタン部隊に同じく戦後ソ連に強制送還され、処刑かシベリア流刑なオチでした。

ちなみに、先に登場したフサイニーは終戦時に英軍に逮捕・収監されるも脱獄。
各地を転々とし、反ユダヤ煽動を継続しましたw



だす えんで
(上の写真がわからない人はマイウェイ見てw)


●参考
https://reibert.info/
http://www.axishistory.com/
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/
http://en.wikipedia.org/wiki/Ostlegionen
http://www.wehrmacht-awards.com/forums/index.php
イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~(ユルゲン・トールヴァルト著)
  


Posted by ジェレミア at 17:36Comments(2)東方部隊の各種民族部隊