2023年11月12日

テッセル島の反乱

どうも、お久しです。
なんか30過ぎたら仕事やらで疲れて書く気起きなくて放置してたら6年ぶりの投稿になりました。完全に筆不精ですね。

久々な更新でいきなりですが、2024年4月27日(土)~28日(日)にテッセル島の反乱イベントをすることとなりました。
で、過去の記事は10年も前に書いたので資料も今ほど多くなく、私の知識量なんかもショボかったのであまり正確でないため、イベント参加を考えてる方や興味ある方にテッセルの反乱について知ってもらうため改めて書いてみました。
(すげー身勝手)
※イベント興味ある方は是非参加してください。

グルジア人義勇部隊については以前の記事参照。
(これも修正すべき点がいくつもあるんですが追々…)

ですます調はめんどいので時系列で淡々と書いてます。
相変わらずクソ長いですがお付き合いください。
※現在はジョージアと書くべきなんですが、グルジアという表記の方が結局は認知度も高いし、アメリカ・ジョージア州との混同やら何やらあるのでジョージアには申し訳ないけど『グルジア』表記としてます。
記事中の画像はクリックすれば拡大できます。



テッセル島はオランダ北部にある小さな島で面積463㎢(日本の種子島くらい)、人口は1万程。
テッセル島の反乱
テッセル島の反乱テッセル島の反乱

ドイツのオランダ侵攻以降、この島には陸軍が1~2個歩兵大隊、海軍は1個沿岸砲大隊(北端と南端の沿岸砲台)および1個高射砲大隊が常時駐留していた。
※海軍はオランダ本土から第201・607沿岸砲大隊、および第246・808・816高射砲大隊から各1個大隊が交代で駐留していた。
※海軍は各1個大隊という記載であるものの、島の規模からして高射砲兵は1~2個中隊の分遣隊と思われる。
※陸軍の沿岸砲大隊も駐留していたという記述もあったが詳細不明。


↓ テッセル島に駐留していた自由インド軍団の写真。
テッセル島の反乱テッセル島の反乱
それほど重要な島ではないため、所謂はりつけ部隊として1943年中頃から東方大隊や自由インド軍団等の外国人義勇部隊が交代で駐留した。
(重要度が低く安全な地域であるが故にドイツ軍のプロパガンダ撮影や、カメラを所有する島民が外国人を物珍しく思い撮影した写真等が意外と残っている)
これらのドイツ軍部隊の他に、地元警察とは別でNSB(オランダのファシスト政党)の警備隊が島民の監視を行った。

1945/2/6
それまで駐留していた陸軍北カフカス人大隊に代わり、アムステルダム西方ザントフォールトに駐留していたグルジア第822歩兵大隊『Königin Tamara(タマラ女王)』が到着した。
↓ ポーランドで訓練中の第822歩兵大隊(43年)。
テッセル島の反乱


↓ 第822歩兵大隊長クラウス・ブライトナー少佐
テッセル島の反乱
グルジア第822歩兵大隊『タマラ女王』は1943/6にポーランドのラドムで編成され、ドイツ人将兵約400名と赤軍から転向したグルジア人義勇兵約800名からなる7個中隊で構成された増強歩兵大隊で、大隊指揮官はドイツ人のクラウス・ブライトナー少佐。

この時期、終戦もそう遠くない状況であることは駐留部隊も住民も理解していたが、グルジア人たちには大きな問題があった。
彼らの大部分は東部戦線でドイツ軍の捕虜となって劣悪すぎる環境の捕虜収容所に送られ、生き延びるための唯一の選択肢として仕方なく東方部隊へ志願したという者が多く、ナチズムや反共思想に共感していたわけではなかった。
故郷へ帰りたいという願望はあるもののグルジアまで3000㎞以上も離れていてはたやすく帰れる訳もなく、とは言えこのまま終戦となり捕虜としてソ連に送還された場合、ドイツ軍への協力者であり裏切り者であるため間違いなく処刑や強制収容所送り等の悲惨な末路しかない。

そのためグルジア人たちは内密に協議を重ね、反乱を起こしドイツ人に抵抗していたという実績を残し、それを交渉材料とすれば強制送還されても助命・減刑ができるであろうという考えに至った。
反乱を起こすにしても現地抵抗組織と接触して連携する必要があるため、オランダ本土に駐留していた時から水面下で準備を進めており、抵抗組織との情報交換の他に武器弾薬・医薬品を少量ずつ盗んで抵抗組織への横流しも行っていた。
テッセル島に到着した際も、1週間と経たない内に島民らと交流する中で抵抗組織への手引きを依頼して接触していた。

↓ 反乱首謀者の筆頭となるシャルヴァ・ロラゼ少尉(29歳…?)
テッセル島の反乱テッセル島の反乱
4/5 正午
ブライトナー少佐に呼び出されたグルジア人代表のシャルヴァ・ロラゼ少尉(元ソ空軍大尉)らは、大隊がオランダ本土アーネム近郊の前線への出動命令が出たため、翌4/6朝出発する旨をグルジア人将兵らに説明しておくよう伝えられえた。
決起するならこのタイミングだろうと判断したロラゼ少尉は、他のグルジア人士官らを説得。

自分たちの決起を本土にいる他の東方大隊将兵や抵抗組織が聞けば同時蜂起するに違いないとか、連合軍も混乱に乗じて攻勢に出るにだろうという(特に根拠のない淡い)期待もあったため、準備不足や連携不足ながら深夜に行動開始となった。

作戦名は 『誕生日』。
合言葉はロシア語で「誕生日-おめでとう(с днем рождения)」
(これはドイツ人には聞き取り・発音が難しいからという理由らしい)

構想としては近隣の歩哨を隠密に排除、隣接するドイツ人用兵舎・弾薬庫を制圧、武器弾薬を確保し6グループ(1グループあたり約80~120名)に分かれて南北の海軍沿岸砲台と各拠点を襲撃して島全体を制圧するという計画。
制圧後は連合軍に連絡をとって到着まで島を保持し、到着後は島を解放した功労者として交渉をするという算段であった。

以下は制圧目標、( )内はグループの指揮官
・北部砲台および灯台(マジゼ士官候補生、グジャビゼ曹長)

・島中央にある最大の町デン・ブルグ、および付近のテスラ村にある第822大隊本部(ロラゼ少尉※反乱部隊総指揮官兼任)

・西海岸中央の防衛拠点デ・コーフ(コングラゼ少尉)

・中部~西海岸の小集落(ノザゼ曹長)

・中部~東海岸の小集落や滑走路(アルテミゼ少尉、スルフテル曹長)

・南部砲台および南部港町デ・モーク(メリキア少尉)


4/6 午前1時
誕生日』が開始された。
反乱防止のため歩哨時か非常時(戦闘)にならない限り弾薬が配布されないどころか小銃も管理されている上に、銃音を出すと沿岸部の海軍部隊に察知されてしまうため、グルジア人たちは銃剣・ナイフ・カミソリ・棍棒・角材などで襲撃した。

何も知らないドイツ人歩哨たちは喉を切り裂かれる等して殺害され、ドイツ人に好意的・協力的であったグルジア人将兵らも計画を知らされないまま殺害された。
また、兵舎で就寝中だったドイツ人たちは文字通り寝首を搔かれてしまい、1時間と経たない間に300名以上のドイツ人が殺害された。
↓ ドイツ人に協力的として同胞に殺害されたグルジア人先任士官バシリウス・インジャ中尉(左)と反乱首謀者の1人ニコライ・アントノヴィッツ・メリキア少尉(右)(本土ザントフォールト駐留時の式典で撮影された写真)
テッセル島の反乱

しかし一部が発砲禁止の指示を破ってしまい、更に一部ドイツ人歩哨の排除に失敗して発砲されたことで他の守備隊に悟られてしまった。
就寝中だった大隊本部要員らは反乱に気付いて逃げ出し、ブライトナー少佐はデン・ブルグのホテルで愛人と過ごしていたため、襲撃を察知すると愛人や近隣の部下と共に海軍南部砲台に逃げ込んで難を逃れた。
ブライトナー少佐はグルジア人らの反乱行為に激しく怒り狂い、本土に反乱の発生を連絡し島内各所の監視所に防衛体制をとらせた。

午前5時
地元抵抗組織の代表と会談したロラゼ少尉は本土でも複数の東方大隊が同時蜂起した等の嘘をつき、抵抗組織からも兵力を出すよう要請した。

↓ 45年時のデン・ブルグ地図
テッセル島の反乱
午前6時
ロラゼ少尉グループは抵抗組織メンバー約100名と共にデン・ブルグおよびテスラ(大隊本部)の制圧に向かった。
最初にテスラに襲撃を掛けたが、ブライトナー少佐ら本部要員のほとんどは初動での銃声を聞いて南部砲台に逃げ込んだ後であった。

次いですぐにデン・ブルグ制圧に向かい、NSB警備隊の詰め所と市庁舎を襲撃。
グルジア人は投降したNSB隊員を皆殺しにしようとしたが、これは抵抗組織と島民らに反対されたため市庁舎に軟禁した。

↓ 41年頃のホテル『デ・ テッセル』
テッセル島の反乱
デン・ブルグのホテル『デ・ テッセル』には逃亡した十数名のドイツ人本部要員が逃げ込んで抵抗していた。
グルジア人は彼らに今投降すれば命は保証するが、抵抗するなら手榴弾でホテルを爆破すると勧告し、諦めたドイツ兵は武器を捨て投降。
彼らを拘束すれば良いとする抵抗組織側の主張を無視し、グルジア人は投降したドイツ兵をテスラまで連行したあと全員射殺した。

午前9時
デン・ブルグほか島の4分の3程は確保に成功していた。
しかし、ブライトナー少佐が島全域に警報を発令していたため、最重要目標である北部砲台と南部砲台および南部港町デ・モークは防衛体制が整っていたことで制圧に失敗してしまった。
これにより、速やかに島内を完全制圧して連合軍が到着するまで保持するという当初の計画は早々に頓挫した。

また、沿岸砲台はフランス製の旧式ばかりで車輪のない固定砲座で海上目標のみ砲撃可能と思われていたが、実際は88ミリ高射砲を含む多くの砲は移動可能な砲座で強固なコンクリート掩体に守られ、島内ほぼ全域が射程圏内な上に榴弾の備蓄量も十分だった。
↓ テッセル島の沿岸砲陣地における連装砲。
テッセル島の反乱


テッセル島反乱発生の報告はベルリンの陸軍総司令部にも伝わり、徹底的に鎮圧し反逆者は1人残らず皆殺しにせよとの命令が下された。
当然ではあるがグルジア人たちは死ぬまで戦う以外に道がなくなった。
↓ 戦況図(4/6~4/9)
テッセル島の反乱

双方ともドイツ軍の野戦服を着用していたことで敵味方の識別が困難であったため、グルジア人たちは徽章を外した上衣や帽子をインク樽に突っ込んで青黒く染めたり、島民から譲られた背広を着用する等して識別した。
↓ 染めた野戦服がよくわかる写真(解放後の写真)。
※全員というわけでも上下染めているわけでもない急場しのぎ感が強い。
テッセル島の反乱テッセル島の反乱

午後0時
ブライトナー少佐は反乱部隊に対し降伏を勧告したが、ロラゼ少尉らはこれを即拒否した。
また、同時刻から7日にかけて本土から鎮圧部隊としてエーリヒ・ノイマン少佐指揮の第163海軍歩兵連隊(海軍の余剰人員や戦力が低下した陸軍部隊の混成)ほか装甲車(形式不明)数台を含む約1000名が南部港に上陸し、制圧作戦を開始。

午後3時
ドイツ軍の北・南部砲台(主に南部砲台)は反乱部隊制圧地区へ砲撃を開始し、2000発近くを撃ち込んだ。
反乱部隊主力が立て籠もるデン・ブルグには特に激しい砲撃が加えられ、損害が大きいためロラゼ少尉は北部への撤退を指示。
町は家屋50軒が破壊され民間人89名が死亡した。
また、抵抗組織メンバーの多くが激しい砲撃のため戦意が低下し、ドイツ軍の増援が到着してグルジア人らに騙されていたことが判明したこともあって自宅に引き返してしまった。
↓ 破壊されたデン・ブルグの家屋。
テッセル島の反乱テッセル島の反乱

午後9時
鎮圧部隊はデン・ブルグを奪還し進撃を一時中断、残敵掃討を実施。
取り残されたグルジア人は各所で身を潜めたが、発見された者は即射殺された。
反乱部隊主力は島の南半分と東海岸地帯を放棄し、島中央から北部にかけての農場と滑走路(連絡機や海難救助のための偵察機用の簡易なもの)を中心に防衛線を敷いたが、北部砲台はいまだにドイツ海軍が籠城して反乱部隊に対して散発的に砲撃を継続していた。

4/7 午前2時
島と本土を繋ぐ本土側港町デン・ヘルダーの鉄道網を地元抵抗組織が爆破したことで、ドイツ軍の増援と補給が停滞。
しかし、すでにデン・ヘルダーに送られていた物資や人員はフェリーを使って移送が継続され、大勢に影響を与えることはできなかった。

午前11時
鎮圧部隊が攻撃再開し島内各所で戦闘が発生。
反乱部隊主力は迫撃砲を投入して島中央部の小村デ・ワールを一時的に奪還するも、夕方には鎮圧部隊に再奪還され撤退。
北部砲台への攻撃も同時進行していたが、海軍守備隊の必死の抵抗により反乱部隊はここでも撃退され撤退してしまう。
結局、2日目は反乱部隊が西海岸の半分を失い兵力と弾薬を消耗するだけで終わってしまった。

4/8 午前9時
鎮圧部隊は島民に対しグルジア人を匿うことを禁止し、これに違反した場合は死刑および住居に放火すると布告。
しかし、この布告を無視してグルジア人を援助したり保護する島民がかなり多かった。

西海岸中央の防衛拠点デ・コーフは初日から鎮圧部隊の攻撃を再三受けていたが、コンクリート掩体に籠城する反乱部隊は健在で、デン・ブルグ攻略に失敗した主力の一部も合流して約400名となっていた。

午後5時
鎮圧部隊は残存する駐留部隊および本土からの追加増援を合わせて約2000名まで増強され、北・南部砲台からの支援砲撃の下にデ・コーフへの攻撃を強化。

4/10早朝
反乱部隊は砲撃により掩体を破壊され、損害が増大したことで継戦が困難になりデ・コーフから撤退する。
この際、反乱部隊は地雷原に面した道の有刺鉄線を撤去していった。
これにより地雷原と知らずに追撃のため足を踏み入れた多くのドイツ兵が地雷により死傷した。

午前10時
ロラゼ少尉ら反乱部隊の指揮官は戦術変更を決意。
以降は積極的な攻撃を止め、徹底した持久・遅滞戦で時間を稼ぐゲリラ戦術をとることとした。
主力から分断されたり取り残されても、死ぬまで抗戦を続けて同胞が逃げる時間を稼ぐか、潜伏してゲリラ戦で攪乱するように通達された。

↓ 『Joan Hodshon』号
テッセル島の反乱
この際、グルジア人に同情した島民10名とグルジア人4名は北部灯台に係留してあった救命用の手漕ぎボート『Joan Hodshon』号を使用し、なんと北海を横断してイギリスまで渡り救援を要請しに行った。

しかし、イギリス政府とオランダ亡命政府は現段階で上陸作戦を実行できる戦力はなく、オランダ本土でドイツ軍と対峙している部隊もこの小さな島のためだけに多大な犠牲を出すわけにもいかず、様々な理由をつけて現段階での救援は不可能であると返答。
最後の希望は失われてしまった。

4/11~12
鎮圧部隊は北部の農場と滑走路に展開する反乱部隊に対して大規模な攻撃をかける。
ただ、物量で勝る鎮圧部隊も、末期ドイツ軍によくある少年や老人中心の陸軍と地上戦に不慣れな海軍の混成部隊であったため、死に物狂いの反乱部隊を制圧することができなかった。

反乱部隊の一部はインク染めされていない野戦服を着用しており、白兵戦時に敵味方が判別できず損害が増加したため、鎮圧部隊は左足に白布を巻くこととされた。

4/13~14
砲撃で陣地の半数が破壊され波状攻撃による損害が限界に達し、反乱部隊は農場と滑走路の放棄を決定。
4/16まで遅滞戦を行いつつ、最北端の灯台まで後退した。
↓ 北灯台(現在の写真)
テッセル島の反乱テッセル島の反乱
この際に取り残された小グループや動けない負傷者は、文字通り全滅するまで抵抗した。
反乱部隊主力は、北灯台に後退した時点で110名にまで減少していた。

4/17午前10時
北灯台が完全に包囲される。
北灯台周辺は地雷原となっており、唯一通行可能な細長い一本道は反乱部隊の機関銃で防御されていた。

4/20
鎮圧部隊は装甲車の機関砲と迫撃砲で反乱部隊の塹壕や銃眼をシラミ潰しにしていき、煙幕を展開して地雷を排除しつつ徐々に前進。
本土から到着した火炎放射器や爆薬も投入して制圧していった。

4/22
北灯台が鎮圧部隊に完全制圧される。
夜陰に乗じてロラゼ少尉らグルジア人36名が地雷原から包囲を抜けて逃亡していたが、脱出できなかった重軽傷者約60名が降伏した。
彼らは農場まで連れて行かれ、墓穴を掘らされてその場で処刑された。
↓ 制圧後の北灯台。
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4/22夕方
鎮圧部隊は掃討戦に移行。
主力から分断された複数の小グループによる抵抗が続いており、単独や数人単位で各所に潜伏するグルジア人も多数いた。

数度の警告に関わらず、島民はグルジア人の抵抗や潜伏に協力する者が多かった。
夜間に食料を求めて島民とグルジア人が接触するため、鎮圧部隊はパトロールを強化してこれを発見次第射殺した。
↓ 税関国境警備隊のハインリヒ・ヴェルト少尉。熱狂的にグルジア人狩りを行っていたが、4/22夜にグルジア人たちの待ち伏せで射殺された。
テッセル島の反乱

4/23
ロラゼ少尉と数名のグルジア人は中部農場の隅に身を潜めていたが、鎮圧部隊が付近を火炎放射器による炙り出しを始めたことで逃げようと飛び出したところを射殺された。
※ドイツ軍が死体の中からロラゼ少尉の身元確認ができたのは4/25になってからだった。

4/26
大規模で積極的な戦闘や掃討戦はここで終了した。
以降は島内各地に潜伏するグルジア人の捜索が中心となったが、島民らがグルジア人を保護したり援助していたため難航した。
※この時点でも軽傷者含め250名程のグルジア人が数名~数十名単位で海岸の地雷原や森林などに分散し潜伏していた。

4/27
反乱首謀者の1人ウジェニー・アルテミゼ少尉は物陰からドイツ兵を射殺して自転車を奪い、他のグルジア人はパトロールをやり過ごして背後から襲撃してドイツ兵数名を死傷させる等、このような小競り合いが延々と続いた。

5/5
オランダに展開するドイツ軍が降伏したことで、本土の市民は祝賀ムードであったが、テッセル島は違った。
散発的な戦闘は続いていたし、グルジア人らに報復される可能性もあるため、島のドイツ軍は武装解除を行わなかった。
↓ 『解放万歳』と書かれた横断幕が掲げられたデン・ブルグ
テッセル島の反乱

いまだドイツ軍が支配していることに変わりはなく、露骨な祝賀ムードの島民を逮捕し、敵対的ともいえる過激な挑発や侮辱をした島民は処刑された。
↓ ドイツ軍が広場での祝賀集会を解散させているところを偶然撮影した写真
テッセル島の反乱

5/6
生き残ったグルジア人らは自分たちの勝利を確信し、島内各所から次々と姿を現した。
島の市長が代表者として双方の調停を申し出た。
ドイツ軍としては連合軍ではなく抵抗組織に降伏するのは耐え難く、更にグルジア人との小競り合いが続く中での武装解除は一方的な報復を受ける可能性が高いため、降伏も武装解除も拒否。

協議の結果、連合軍が到着するまでは休戦とし、連合軍到着後に双方とも武装解除ということになる。
また、日中はドイツ人、夜間はグルジア人の行動を自由とすることになった。
しかし、憎悪から散発的な小競り合いは続いてしまい数十名の犠牲者を出した。

5/11
ドイツ軍合意の下、島内のNSBメンバーや対独協力者の逮捕が行われた。
衝突を避けるため、ドイツ人とグルジア人は一切関与せずオランダ人(抵抗組織や地元警察)のみで処理することとなった。

5/18
パン屋のスミットは反乱当初からグルジア人にパンを提供していた島民で、生き残ったグルジア人らはパンを恵んでくれた彼へ感謝しに出向いた。
念のためにと武器を携帯していたが、スミットはそれを見て危険ではないかと尋ねた。
グルジア人のワルラム・ロミゼは拳銃から弾倉を抜き取り「もう怖がる必要はない」と安全なことを見せようとした。
が、薬室に1発装填されていることに気付かずふざけて空撃ちするつもりでスミットの胸に向けて発砲、最悪なことに心臓に命中しスミットは即死した。
これがテッセル島での一連の争いにおける最後の犠牲者となった。
(ロミゼはその後も生き抜き、戦後スミット未亡人に何度も謝罪の手紙を送った)

テッセル島の反乱で最終的に島民117名、グルジア人565名、ドイツ兵約600名(陸海軍合計)が死亡した。
※ドイツ兵に関しては、負傷後に本土に後送されてから死亡した者は本土での戦死者としてカウントされたため正確な数値不明。

事態が完全に終息したのがドイツ降伏から2週間近くも後であったため、しばしば「ヨーロッパの最後の戦場」と呼ばれている。

5/20早朝
カナダ軍が上陸。
ドイツ軍は抵抗組織を通して抵抗しない旨の連絡をしていたため、カナダ軍は連絡用フェリーで順次上陸した。
↓ 島民たちに歓迎されるカナダ軍
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正午にはブライトナー少佐・ノイマン少佐らドイツ軍代表がカナダ軍と武装解除についての調整を行った。
↓ カナダ軍のカーク中佐(?)らを迎え入れるノイマン少佐
テッセル島の反乱

5/21
ドイツ軍は1535名が武装解除され、順次本土に送られた。
↓ 武装解除されフェリーに乗り込むドイツ軍将兵
テッセル島の反乱テッセル島の反乱

236名のグルジア人生存者は南西部の森にあるホテル『カリフォルニア』に収容された。
カナダ軍からは厳しい行動制限や武装解除の強制はされなかったため、様々な不安から半数は武装解除を拒否した。
↓ この時に抵抗組織や島民らと撮影した記念写真
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↓ こちらは地元抵抗組織や地元警察の記念写真
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5/26
グルジア人生存者は、収容できた同胞476名の遺体を南東部ホーヘ・ベルクに埋葬した。
ここは後に『ロシア人墓地』(島民はグルジアという国を認知していおらずロシア人と呼んでいたため)と呼ばれ、記念碑も追加された。
↓ これは当初作られた簡易墓地で、墓碑にはソ連を表す鎌と槌があしらわれた
テッセル島の反乱

6/16
1ヵ月近くホテルに留められていた236名のグルジア人らは、本土に渡ってからドイツのヴィルヘルムスハーフェンに送られ、そこからグルジアに帰還するための手続きをすることとなった。
↓ フェリーに乗船する際に撮影された一連の写真
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↓ 生き残った将校の1人で、帰還の指揮をとったメリキア少尉
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6/17早朝
グルジア人らは本土行きフェリーに乗り、本土到着後ドイツ行きのトラックに分乗する際にようやく完全に武装解除した。
本土の民間人たちからは英雄として歓迎された。
↓ 本土到着後にトラックに乗車するところ
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ヤルタ会談で取り決められた条約の中に、西側連合軍が占領した地域内にいる、ソ連成立(1922年)以降の段階でソ連圏で出生もしくは国籍を有している全ての男女(つまりは対独協力者)をソ連に引き渡すという条件が盛り込まれていたため、彼らも対象だった。
(ただし、内戦中に白軍側につく等して22年以前に他国に亡命したり亡命二世として生まれていた者は対象外)

1ヵ月近く待たされたのは西側がソ連への引き渡し回避、もしくは対独協力者としての引き渡しではなく解放者として帰国できるように交渉していたためであった。
オランダ政府およびアイゼンハワー元帥はソ連政府に対し、第822大隊はテッセル島解放の英雄であるため、引き渡しはするが生存者の不起訴もしくは大幅な減刑を求めていた。

しかしスターリンはこれを無視し、228名を強制収容所送り(8名は国外追放)とした。

1954/10
スターリンの死により、特赦として約200名(十名程は収容所で死亡していた)が釈放され、リハビリを受けてからグルジア首都トビリシに帰還。
裏切り者として収監されていたが、グルジアでは英雄として歓迎された。
※ここに来てソ連の態度が軟化し、元対独協力者としては異例のリハビリ治療施設に入所することができた。

1950年代
冷戦の影響でオランダでも共産主義への取締りが強化されたことで、テッセル島におけるグルジア人追悼は制限された。

1963/5
元第822大隊のギオルギ・ジムスジレスジシビリが『ロシア人墓地』を訪問。
彼は反乱当初からグルジア人を手助けしていたコルネリア・ブーン・フェルベルグ夫人らと面会して交流した。

1966/6
今度はフェルベルグ夫人がグルジアに訪問し、元第822大隊生存者たちと再会した。

1990/5
ソ連崩壊で制限がなくなったため、グルジアとテッセル島は公式に文化交流を開始。

2002/5
グルジア大統領ミヘイル・サアカシュヴィリが妻(オランダ出身)と私的に訪問し献花した。

反乱首謀者の1人ウジェニー・アルテミゼ少尉は2010年に亡くなり、第822大隊最後の存命者であったグリシャ・バインドゥラシビリは2021年に102歳で亡くなった。


最後に、テッセル島の反乱を描いた作品(映画)のご紹介。
1968年グルジア制作の『十字架の島(ჯვარცმული კუნძული 露:Распятый остров)』
2010年オランダ制作の『カズベクの飛行士(De vliegenierster van Kazbek)』 ※ミュージカル映画
の2つが存在するも日本語字幕は存在しないため、英語字幕が読める方は是非。


おわり


参考
https://www.normandy1944.info/home/battles/battle-of-texel
https://militaryhistorynow.com/2020/05/17/the-battle-of-texel-inside-the-bloody-german-army-mutiny-that-continued-on-after-ve-day/
https://en.topwar.ru/173629-otlozhennyj-konec-vojny-vosstanie-gruzinskih-legionerov-na-ostrove-teksel.html
https://www.landmarkscout.com/the-last-battle-of-ww2-in-europe-the-georgian-uprising-on-texel-the-netherlands/
https://www.atlantikwall-wadden.nl/en/bezoek/texel/georgische-opstand-op-texel 等





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この記事へのコメント
オランダの離島で最後の戦闘があったことは存じておりましたが、その内実はここまでグダグダかつ胸糞悪くなる悲劇とは思いませんでした。
この戦闘に巻き込まれた全員が気の毒でなりません。
島民の皆さんが一番気の毒でしょうか。
Posted by 引退した人 at 2023年11月12日 22:13
6年間待ってました!
これからも、無理の無い範囲で投稿お願いします!
ホント嬉しい!
Posted by コヨーテ at 2023年11月19日 01:50
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