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Posted by ミリタリーブログ at

2023年11月12日

テッセル島の反乱

どうも、お久しです。
なんか30過ぎたら仕事やらで疲れて書く気起きなくて放置してたら6年ぶりの投稿になりました。完全に筆不精ですね。

久々な更新でいきなりですが、2024年4月27日(土)~28日(日)にテッセル島の反乱イベントをすることとなりました。
で、過去の記事は10年も前に書いたので資料も今ほど多くなく、私の知識量なんかもショボかったのであまり正確でないため、イベント参加を考えてる方や興味ある方にテッセルの反乱について知ってもらうため改めて書いてみました。
(すげー身勝手)
※イベント興味ある方は是非参加してください。

グルジア人義勇部隊については以前の記事参照。
(これも修正すべき点がいくつもあるんですが追々…)

ですます調はめんどいので時系列で淡々と書いてます。
相変わらずクソ長いですがお付き合いください。
※現在はジョージアと書くべきなんですが、グルジアという表記の方が結局は認知度も高いし、アメリカ・ジョージア州との混同やら何やらあるのでジョージアには申し訳ないけど『グルジア』表記としてます。
記事中の画像はクリックすれば拡大できます。



テッセル島はオランダ北部にある小さな島で面積463㎢(日本の種子島くらい)、人口は1万程。



ドイツのオランダ侵攻以降、この島には陸軍が1~2個歩兵大隊、海軍は1個沿岸砲大隊(北端と南端の沿岸砲台)および1個高射砲大隊が常時駐留していた。
※海軍はオランダ本土から第201・607沿岸砲大隊、および第246・808・816高射砲大隊から各1個大隊が交代で駐留していた。
※海軍は各1個大隊という記載であるものの、島の規模からして高射砲兵は1~2個中隊の分遣隊と思われる。
※陸軍の沿岸砲大隊も駐留していたという記述もあったが詳細不明。


↓ テッセル島に駐留していた自由インド軍団の写真。

それほど重要な島ではないため、所謂はりつけ部隊として1943年中頃から東方大隊や自由インド軍団等の外国人義勇部隊が交代で駐留した。
(重要度が低く安全な地域であるが故にドイツ軍のプロパガンダ撮影や、カメラを所有する島民が外国人を物珍しく思い撮影した写真等が意外と残っている)
これらのドイツ軍部隊の他に、地元警察とは別でNSB(オランダのファシスト政党)の警備隊が島民の監視を行った。

1945/2/6
それまで駐留していた陸軍北カフカス人大隊に代わり、アムステルダム西方ザントフォールトに駐留していたグルジア第822歩兵大隊『Königin Tamara(タマラ女王)』が到着した。
↓ ポーランドで訓練中の第822歩兵大隊(43年)。



↓ 第822歩兵大隊長クラウス・ブライトナー少佐

グルジア第822歩兵大隊『タマラ女王』は1943/6にポーランドのラドムで編成され、ドイツ人将兵約400名と赤軍から転向したグルジア人義勇兵約800名からなる7個中隊で構成された増強歩兵大隊で、大隊指揮官はドイツ人のクラウス・ブライトナー少佐。

この時期、終戦もそう遠くない状況であることは駐留部隊も住民も理解していたが、グルジア人たちには大きな問題があった。
彼らの大部分は東部戦線でドイツ軍の捕虜となって劣悪すぎる環境の捕虜収容所に送られ、生き延びるための唯一の選択肢として仕方なく東方部隊へ志願したという者が多く、ナチズムや反共思想に共感していたわけではなかった。
故郷へ帰りたいという願望はあるもののグルジアまで3000㎞以上も離れていてはたやすく帰れる訳もなく、とは言えこのまま終戦となり捕虜としてソ連に送還された場合、ドイツ軍への協力者であり裏切り者であるため間違いなく処刑や強制収容所送り等の悲惨な末路しかない。

そのためグルジア人たちは内密に協議を重ね、反乱を起こしドイツ人に抵抗していたという実績を残し、それを交渉材料とすれば強制送還されても助命・減刑ができるであろうという考えに至った。
反乱を起こすにしても現地抵抗組織と接触して連携する必要があるため、オランダ本土に駐留していた時から水面下で準備を進めており、抵抗組織との情報交換の他に武器弾薬・医薬品を少量ずつ盗んで抵抗組織への横流しも行っていた。
テッセル島に到着した際も、1週間と経たない内に島民らと交流する中で抵抗組織への手引きを依頼して接触していた。

↓ 反乱首謀者の筆頭となるシャルヴァ・ロラゼ少尉(29歳…?)

4/5 正午
ブライトナー少佐に呼び出されたグルジア人代表のシャルヴァ・ロラゼ少尉(元ソ空軍大尉)らは、大隊がオランダ本土アーネム近郊の前線への出動命令が出たため、翌4/6朝出発する旨をグルジア人将兵らに説明しておくよう伝えられえた。
決起するならこのタイミングだろうと判断したロラゼ少尉は、他のグルジア人士官らを説得。

自分たちの決起を本土にいる他の東方大隊将兵や抵抗組織が聞けば同時蜂起するに違いないとか、連合軍も混乱に乗じて攻勢に出るにだろうという(特に根拠のない淡い)期待もあったため、準備不足や連携不足ながら深夜に行動開始となった。

作戦名は 『誕生日』。
合言葉はロシア語で「誕生日-おめでとう(с днем рождения)」
(これはドイツ人には聞き取り・発音が難しいからという理由らしい)

構想としては近隣の歩哨を隠密に排除、隣接するドイツ人用兵舎・弾薬庫を制圧、武器弾薬を確保し6グループ(1グループあたり約80~120名)に分かれて南北の海軍沿岸砲台と各拠点を襲撃して島全体を制圧するという計画。
制圧後は連合軍に連絡をとって到着まで島を保持し、到着後は島を解放した功労者として交渉をするという算段であった。

以下は制圧目標、( )内はグループの指揮官
・北部砲台および灯台(マジゼ士官候補生、グジャビゼ曹長)

・島中央にある最大の町デン・ブルグ、および付近のテスラ村にある第822大隊本部(ロラゼ少尉※反乱部隊総指揮官兼任)

・西海岸中央の防衛拠点デ・コーフ(コングラゼ少尉)

・中部~西海岸の小集落(ノザゼ曹長)

・中部~東海岸の小集落や滑走路(アルテミゼ少尉、スルフテル曹長)

・南部砲台および南部港町デ・モーク(メリキア少尉)


4/6 午前1時
誕生日』が開始された。
反乱防止のため歩哨時か非常時(戦闘)にならない限り弾薬が配布されないどころか小銃も管理されている上に、銃音を出すと沿岸部の海軍部隊に察知されてしまうため、グルジア人たちは銃剣・ナイフ・カミソリ・棍棒・角材などで襲撃した。

何も知らないドイツ人歩哨たちは喉を切り裂かれる等して殺害され、ドイツ人に好意的・協力的であったグルジア人将兵らも計画を知らされないまま殺害された。
また、兵舎で就寝中だったドイツ人たちは文字通り寝首を搔かれてしまい、1時間と経たない間に300名以上のドイツ人が殺害された。
↓ ドイツ人に協力的として同胞に殺害されたグルジア人先任士官バシリウス・インジャ中尉(左)と反乱首謀者の1人ニコライ・アントノヴィッツ・メリキア少尉(右)(本土ザントフォールト駐留時の式典で撮影された写真)


しかし一部が発砲禁止の指示を破ってしまい、更に一部ドイツ人歩哨の排除に失敗して発砲されたことで他の守備隊に悟られてしまった。
就寝中だった大隊本部要員らは反乱に気付いて逃げ出し、ブライトナー少佐はデン・ブルグのホテルで愛人と過ごしていたため、襲撃を察知すると愛人や近隣の部下と共に海軍南部砲台に逃げ込んで難を逃れた。
ブライトナー少佐はグルジア人らの反乱行為に激しく怒り狂い、本土に反乱の発生を連絡し島内各所の監視所に防衛体制をとらせた。

午前5時
地元抵抗組織の代表と会談したロラゼ少尉は本土でも複数の東方大隊が同時蜂起した等の嘘をつき、抵抗組織からも兵力を出すよう要請した。

↓ 45年時のデン・ブルグ地図

午前6時
ロラゼ少尉グループは抵抗組織メンバー約100名と共にデン・ブルグおよびテスラ(大隊本部)の制圧に向かった。
最初にテスラに襲撃を掛けたが、ブライトナー少佐ら本部要員のほとんどは初動での銃声を聞いて南部砲台に逃げ込んだ後であった。

次いですぐにデン・ブルグ制圧に向かい、NSB警備隊の詰め所と市庁舎を襲撃。
グルジア人は投降したNSB隊員を皆殺しにしようとしたが、これは抵抗組織と島民らに反対されたため市庁舎に軟禁した。

↓ 41年頃のホテル『デ・ テッセル』

デン・ブルグのホテル『デ・ テッセル』には逃亡した十数名のドイツ人本部要員が逃げ込んで抵抗していた。
グルジア人は彼らに今投降すれば命は保証するが、抵抗するなら手榴弾でホテルを爆破すると勧告し、諦めたドイツ兵は武器を捨て投降。
彼らを拘束すれば良いとする抵抗組織側の主張を無視し、グルジア人は投降したドイツ兵をテスラまで連行したあと全員射殺した。

午前9時
デン・ブルグほか島の4分の3程は確保に成功していた。
しかし、ブライトナー少佐が島全域に警報を発令していたため、最重要目標である北部砲台と南部砲台および南部港町デ・モークは防衛体制が整っていたことで制圧に失敗してしまった。
これにより、速やかに島内を完全制圧して連合軍が到着するまで保持するという当初の計画は早々に頓挫した。

また、沿岸砲台はフランス製の旧式ばかりで車輪のない固定砲座で海上目標のみ砲撃可能と思われていたが、実際は88ミリ高射砲を含む多くの砲は移動可能な砲座で強固なコンクリート掩体に守られ、島内ほぼ全域が射程圏内な上に榴弾の備蓄量も十分だった。
↓ テッセル島の沿岸砲陣地における連装砲。



テッセル島反乱発生の報告はベルリンの陸軍総司令部にも伝わり、徹底的に鎮圧し反逆者は1人残らず皆殺しにせよとの命令が下された。
当然ではあるがグルジア人たちは死ぬまで戦う以外に道がなくなった。
↓ 戦況図(4/6~4/9)


双方ともドイツ軍の野戦服を着用していたことで敵味方の識別が困難であったため、グルジア人たちは徽章を外した上衣や帽子をインク樽に突っ込んで青黒く染めたり、島民から譲られた背広を着用する等して識別した。
↓ 染めた野戦服がよくわかる写真(解放後の写真)。
※全員というわけでも上下染めているわけでもない急場しのぎ感が強い。


午後0時
ブライトナー少佐は反乱部隊に対し降伏を勧告したが、ロラゼ少尉らはこれを即拒否した。
また、同時刻から7日にかけて本土から鎮圧部隊としてエーリヒ・ノイマン少佐指揮の第163海軍歩兵連隊(海軍の余剰人員や戦力が低下した陸軍部隊の混成)ほか装甲車(形式不明)数台を含む約1000名が南部港に上陸し、制圧作戦を開始。

午後3時
ドイツ軍の北・南部砲台(主に南部砲台)は反乱部隊制圧地区へ砲撃を開始し、2000発近くを撃ち込んだ。
反乱部隊主力が立て籠もるデン・ブルグには特に激しい砲撃が加えられ、損害が大きいためロラゼ少尉は北部への撤退を指示。
町は家屋50軒が破壊され民間人89名が死亡した。
また、抵抗組織メンバーの多くが激しい砲撃のため戦意が低下し、ドイツ軍の増援が到着してグルジア人らに騙されていたことが判明したこともあって自宅に引き返してしまった。
↓ 破壊されたデン・ブルグの家屋。


午後9時
鎮圧部隊はデン・ブルグを奪還し進撃を一時中断、残敵掃討を実施。
取り残されたグルジア人は各所で身を潜めたが、発見された者は即射殺された。
反乱部隊主力は島の南半分と東海岸地帯を放棄し、島中央から北部にかけての農場と滑走路(連絡機や海難救助のための偵察機用の簡易なもの)を中心に防衛線を敷いたが、北部砲台はいまだにドイツ海軍が籠城して反乱部隊に対して散発的に砲撃を継続していた。

4/7 午前2時
島と本土を繋ぐ本土側港町デン・ヘルダーの鉄道網を地元抵抗組織が爆破したことで、ドイツ軍の増援と補給が停滞。
しかし、すでにデン・ヘルダーに送られていた物資や人員はフェリーを使って移送が継続され、大勢に影響を与えることはできなかった。

午前11時
鎮圧部隊が攻撃再開し島内各所で戦闘が発生。
反乱部隊主力は迫撃砲を投入して島中央部の小村デ・ワールを一時的に奪還するも、夕方には鎮圧部隊に再奪還され撤退。
北部砲台への攻撃も同時進行していたが、海軍守備隊の必死の抵抗により反乱部隊はここでも撃退され撤退してしまう。
結局、2日目は反乱部隊が西海岸の半分を失い兵力と弾薬を消耗するだけで終わってしまった。

4/8 午前9時
鎮圧部隊は島民に対しグルジア人を匿うことを禁止し、これに違反した場合は死刑および住居に放火すると布告。
しかし、この布告を無視してグルジア人を援助したり保護する島民がかなり多かった。

西海岸中央の防衛拠点デ・コーフは初日から鎮圧部隊の攻撃を再三受けていたが、コンクリート掩体に籠城する反乱部隊は健在で、デン・ブルグ攻略に失敗した主力の一部も合流して約400名となっていた。

午後5時
鎮圧部隊は残存する駐留部隊および本土からの追加増援を合わせて約2000名まで増強され、北・南部砲台からの支援砲撃の下にデ・コーフへの攻撃を強化。

4/10早朝
反乱部隊は砲撃により掩体を破壊され、損害が増大したことで継戦が困難になりデ・コーフから撤退する。
この際、反乱部隊は地雷原に面した道の有刺鉄線を撤去していった。
これにより地雷原と知らずに追撃のため足を踏み入れた多くのドイツ兵が地雷により死傷した。

午前10時
ロラゼ少尉ら反乱部隊の指揮官は戦術変更を決意。
以降は積極的な攻撃を止め、徹底した持久・遅滞戦で時間を稼ぐゲリラ戦術をとることとした。
主力から分断されたり取り残されても、死ぬまで抗戦を続けて同胞が逃げる時間を稼ぐか、潜伏してゲリラ戦で攪乱するように通達された。

↓ 『Joan Hodshon』号

この際、グルジア人に同情した島民10名とグルジア人4名は北部灯台に係留してあった救命用の手漕ぎボート『Joan Hodshon』号を使用し、なんと北海を横断してイギリスまで渡り救援を要請しに行った。

しかし、イギリス政府とオランダ亡命政府は現段階で上陸作戦を実行できる戦力はなく、オランダ本土でドイツ軍と対峙している部隊もこの小さな島のためだけに多大な犠牲を出すわけにもいかず、様々な理由をつけて現段階での救援は不可能であると返答。
最後の希望は失われてしまった。

4/11~12
鎮圧部隊は北部の農場と滑走路に展開する反乱部隊に対して大規模な攻撃をかける。
ただ、物量で勝る鎮圧部隊も、末期ドイツ軍によくある少年や老人中心の陸軍と地上戦に不慣れな海軍の混成部隊であったため、死に物狂いの反乱部隊を制圧することができなかった。

反乱部隊の一部はインク染めされていない野戦服を着用しており、白兵戦時に敵味方が判別できず損害が増加したため、鎮圧部隊は左足に白布を巻くこととされた。

4/13~14
砲撃で陣地の半数が破壊され波状攻撃による損害が限界に達し、反乱部隊は農場と滑走路の放棄を決定。
4/16まで遅滞戦を行いつつ、最北端の灯台まで後退した。
↓ 北灯台(現在の写真)

この際に取り残された小グループや動けない負傷者は、文字通り全滅するまで抵抗した。
反乱部隊主力は、北灯台に後退した時点で110名にまで減少していた。

4/17午前10時
北灯台が完全に包囲される。
北灯台周辺は地雷原となっており、唯一通行可能な細長い一本道は反乱部隊の機関銃で防御されていた。

4/20
鎮圧部隊は装甲車の機関砲と迫撃砲で反乱部隊の塹壕や銃眼をシラミ潰しにしていき、煙幕を展開して地雷を排除しつつ徐々に前進。
本土から到着した火炎放射器や爆薬も投入して制圧していった。

4/22
北灯台が鎮圧部隊に完全制圧される。
夜陰に乗じてロラゼ少尉らグルジア人36名が地雷原から包囲を抜けて逃亡していたが、脱出できなかった重軽傷者約60名が降伏した。
彼らは農場まで連れて行かれ、墓穴を掘らされてその場で処刑された。
↓ 制圧後の北灯台。


4/22夕方
鎮圧部隊は掃討戦に移行。
主力から分断された複数の小グループによる抵抗が続いており、単独や数人単位で各所に潜伏するグルジア人も多数いた。

数度の警告に関わらず、島民はグルジア人の抵抗や潜伏に協力する者が多かった。
夜間に食料を求めて島民とグルジア人が接触するため、鎮圧部隊はパトロールを強化してこれを発見次第射殺した。
↓ 税関国境警備隊のハインリヒ・ヴェルト少尉。熱狂的にグルジア人狩りを行っていたが、4/22夜にグルジア人たちの待ち伏せで射殺された。


4/23
ロラゼ少尉と数名のグルジア人は中部農場の隅に身を潜めていたが、鎮圧部隊が付近を火炎放射器による炙り出しを始めたことで逃げようと飛び出したところを射殺された。
※ドイツ軍が死体の中からロラゼ少尉の身元確認ができたのは4/25になってからだった。

4/26
大規模で積極的な戦闘や掃討戦はここで終了した。
以降は島内各地に潜伏するグルジア人の捜索が中心となったが、島民らがグルジア人を保護したり援助していたため難航した。
※この時点でも軽傷者含め250名程のグルジア人が数名~数十名単位で海岸の地雷原や森林などに分散し潜伏していた。

4/27
反乱首謀者の1人ウジェニー・アルテミゼ少尉は物陰からドイツ兵を射殺して自転車を奪い、他のグルジア人はパトロールをやり過ごして背後から襲撃してドイツ兵数名を死傷させる等、このような小競り合いが延々と続いた。

5/5
オランダに展開するドイツ軍が降伏したことで、本土の市民は祝賀ムードであったが、テッセル島は違った。
散発的な戦闘は続いていたし、グルジア人らに報復される可能性もあるため、島のドイツ軍は武装解除を行わなかった。
↓ 『解放万歳』と書かれた横断幕が掲げられたデン・ブルグ


いまだドイツ軍が支配していることに変わりはなく、露骨な祝賀ムードの島民を逮捕し、敵対的ともいえる過激な挑発や侮辱をした島民は処刑された。
↓ ドイツ軍が広場での祝賀集会を解散させているところを偶然撮影した写真


5/6
生き残ったグルジア人らは自分たちの勝利を確信し、島内各所から次々と姿を現した。
島の市長が代表者として双方の調停を申し出た。
ドイツ軍としては連合軍ではなく抵抗組織に降伏するのは耐え難く、更にグルジア人との小競り合いが続く中での武装解除は一方的な報復を受ける可能性が高いため、降伏も武装解除も拒否。

協議の結果、連合軍が到着するまでは休戦とし、連合軍到着後に双方とも武装解除ということになる。
また、日中はドイツ人、夜間はグルジア人の行動を自由とすることになった。
しかし、憎悪から散発的な小競り合いは続いてしまい数十名の犠牲者を出した。

5/11
ドイツ軍合意の下、島内のNSBメンバーや対独協力者の逮捕が行われた。
衝突を避けるため、ドイツ人とグルジア人は一切関与せずオランダ人(抵抗組織や地元警察)のみで処理することとなった。

5/18
パン屋のスミットは反乱当初からグルジア人にパンを提供していた島民で、生き残ったグルジア人らはパンを恵んでくれた彼へ感謝しに出向いた。
念のためにと武器を携帯していたが、スミットはそれを見て危険ではないかと尋ねた。
グルジア人のワルラム・ロミゼは拳銃から弾倉を抜き取り「もう怖がる必要はない」と安全なことを見せようとした。
が、薬室に1発装填されていることに気付かずふざけて空撃ちするつもりでスミットの胸に向けて発砲、最悪なことに心臓に命中しスミットは即死した。
これがテッセル島での一連の争いにおける最後の犠牲者となった。
(ロミゼはその後も生き抜き、戦後スミット未亡人に何度も謝罪の手紙を送った)

テッセル島の反乱で最終的に島民117名、グルジア人565名、ドイツ兵約600名(陸海軍合計)が死亡した。
※ドイツ兵に関しては、負傷後に本土に後送されてから死亡した者は本土での戦死者としてカウントされたため正確な数値不明。

事態が完全に終息したのがドイツ降伏から2週間近くも後であったため、しばしば「ヨーロッパの最後の戦場」と呼ばれている。

5/20早朝
カナダ軍が上陸。
ドイツ軍は抵抗組織を通して抵抗しない旨の連絡をしていたため、カナダ軍は連絡用フェリーで順次上陸した。
↓ 島民たちに歓迎されるカナダ軍


正午にはブライトナー少佐・ノイマン少佐らドイツ軍代表がカナダ軍と武装解除についての調整を行った。
↓ カナダ軍のカーク中佐(?)らを迎え入れるノイマン少佐


5/21
ドイツ軍は1535名が武装解除され、順次本土に送られた。
↓ 武装解除されフェリーに乗り込むドイツ軍将兵


236名のグルジア人生存者は南西部の森にあるホテル『カリフォルニア』に収容された。
カナダ軍からは厳しい行動制限や武装解除の強制はされなかったため、様々な不安から半数は武装解除を拒否した。
↓ この時に抵抗組織や島民らと撮影した記念写真


↓ こちらは地元抵抗組織や地元警察の記念写真


5/26
グルジア人生存者は、収容できた同胞476名の遺体を南東部ホーヘ・ベルクに埋葬した。
ここは後に『ロシア人墓地』(島民はグルジアという国を認知していおらずロシア人と呼んでいたため)と呼ばれ、記念碑も追加された。
↓ これは当初作られた簡易墓地で、墓碑にはソ連を表す鎌と槌があしらわれた


6/16
1ヵ月近くホテルに留められていた236名のグルジア人らは、本土に渡ってからドイツのヴィルヘルムスハーフェンに送られ、そこからグルジアに帰還するための手続きをすることとなった。
↓ フェリーに乗船する際に撮影された一連の写真


↓ 生き残った将校の1人で、帰還の指揮をとったメリキア少尉


6/17早朝
グルジア人らは本土行きフェリーに乗り、本土到着後ドイツ行きのトラックに分乗する際にようやく完全に武装解除した。
本土の民間人たちからは英雄として歓迎された。
↓ 本土到着後にトラックに乗車するところ


ヤルタ会談で取り決められた条約の中に、西側連合軍が占領した地域内にいる、ソ連成立(1922年)以降の段階でソ連圏で出生もしくは国籍を有している全ての男女(つまりは対独協力者)をソ連に引き渡すという条件が盛り込まれていたため、彼らも対象だった。
(ただし、内戦中に白軍側につく等して22年以前に他国に亡命したり亡命二世として生まれていた者は対象外)

1ヵ月近く待たされたのは西側がソ連への引き渡し回避、もしくは対独協力者としての引き渡しではなく解放者として帰国できるように交渉していたためであった。
オランダ政府およびアイゼンハワー元帥はソ連政府に対し、第822大隊はテッセル島解放の英雄であるため、引き渡しはするが生存者の不起訴もしくは大幅な減刑を求めていた。

しかしスターリンはこれを無視し、228名を強制収容所送り(8名は国外追放)とした。

1954/10
スターリンの死により、特赦として約200名(十名程は収容所で死亡していた)が釈放され、リハビリを受けてからグルジア首都トビリシに帰還。
裏切り者として収監されていたが、グルジアでは英雄として歓迎された。
※ここに来てソ連の態度が軟化し、元対独協力者としては異例のリハビリ治療施設に入所することができた。

1950年代
冷戦の影響でオランダでも共産主義への取締りが強化されたことで、テッセル島におけるグルジア人追悼は制限された。

1963/5
元第822大隊のギオルギ・ジムスジレスジシビリが『ロシア人墓地』を訪問。
彼は反乱当初からグルジア人を手助けしていたコルネリア・ブーン・フェルベルグ夫人らと面会して交流した。

1966/6
今度はフェルベルグ夫人がグルジアに訪問し、元第822大隊生存者たちと再会した。

1990/5
ソ連崩壊で制限がなくなったため、グルジアとテッセル島は公式に文化交流を開始。

2002/5
グルジア大統領ミヘイル・サアカシュヴィリが妻(オランダ出身)と私的に訪問し献花した。

反乱首謀者の1人ウジェニー・アルテミゼ少尉は2010年に亡くなり、第822大隊最後の存命者であったグリシャ・バインドゥラシビリは2021年に102歳で亡くなった。


最後に、テッセル島の反乱を描いた作品(映画)のご紹介。
1968年グルジア制作の『十字架の島(ჯვარცმული კუნძული 露:Распятый остров)』
2010年オランダ制作の『カズベクの飛行士(De vliegenierster van Kazbek)』 ※ミュージカル映画
の2つが存在するも日本語字幕は存在しないため、英語字幕が読める方は是非。


おわり


参考
https://www.normandy1944.info/home/battles/battle-of-texel
https://militaryhistorynow.com/2020/05/17/the-battle-of-texel-inside-the-bloody-german-army-mutiny-that-continued-on-after-ve-day/
https://en.topwar.ru/173629-otlozhennyj-konec-vojny-vosstanie-gruzinskih-legionerov-na-ostrove-teksel.html
https://www.landmarkscout.com/the-last-battle-of-ww2-in-europe-the-georgian-uprising-on-texel-the-netherlands/
https://www.atlantikwall-wadden.nl/en/bezoek/texel/georgische-opstand-op-texel 等

  


Posted by ジェレミア at 18:25Comments(2)東方部隊の各種民族部隊

2017年04月22日

トルキスタン義勇部隊

どうも、お久し振りです。
3年ぶり?の凄まじく不定期な更新ですw

今回はトルキスタン義勇部隊について。
相も変わらずまたクソ長文なりました。
何枚かの写真はPC版だと画素が荒くなるので、縮小サイズとオリジナルサイズ載せてます。


そもそものトルキスタンについては、まぁwikiを参照頂きたいと思います。

ぱっと見でわかるように、東方部隊の中でも結構複雑な民族構成です…
カタカナ表記は言い出したらキリないので、wiki先生に倣って広義的な国というか地域としてはトルキスタン、民族としてはテュルクという表記にします。

以前の東方部隊全般の解説で書いたように、ドイツ軍には様々な国家・民族の部隊がありますが、ソ連に組み込まれてある程度国境線が明確になったとはいえ、広範囲に分布し曖昧で複雑な民族の混じりあったテュルク民族は若干大雑把に纏めた気がしないでもないです。
とはいっても、民族としての源流が近しいタタール人やカルムィク人は別の民族部隊として分類して編成しています。
タタールやカルムィクも含め、テュルク民族は東アジアから流れてきたモンゴル系民族が広く散っている地域のため、モンゴロイドな黄色人種が多いのが特徴です。

トルキスタン義勇部隊は、正式な戦闘部隊として第450、452、480、781、782、783、784、785、786、787、788、789、790、791、792、793、794、811、839、840、841、842歩兵大隊、および第I./29、I./44、I./76、II./76、I./94、I./100、I./295、I./297、I./305、I./370、I./371、I./384、I./389野戦大隊の計35個大隊。
これらのほかに、いくつかのトルキスタンの名を冠していない大隊、いくつかの建設大隊(通常工兵と違って築城・構築等が専門の大工さん部隊)も編成されました。
戦闘部隊のうち、いくつかの大隊は後述の第162歩兵師団(トゥルク)に編入され、他のいくつかは43年末から武装SSの管轄となりました。
歩兵大隊と野戦大隊の違いは以前の記事末尾あたり参照。
トルキスタン義勇部隊はカフカス系東方部隊の中で最も規模が大きいため、主にフランスやオランダやイタリアで西側連合軍相手にそこそこ戦っています。
まあパルチザン相手がほとんどですが。


まずは袖章から。
トルキスタンはカフカス系部隊に分類されるため、どのタイプも右袖上腕着用です。

42年初頭に採用されたトルキスタン義勇兵の袖章。
テュルク民族はイスラム教徒が大半であるため、モスクが描かれてます。

下には ” TURKISTANの ”文字。
上には ” Biz ALLA Bilen ”トルコ語で 『 Biz Allah Bilenleriz :我らはアッラーと共にあり 』 を意味する表記。
ドイツ軍のベルトバックルに刻まれている 『 GOTT MIT UNS : 神は我らと共にあり 』 はキリスト教の神であるため、ちゃんと『神(キリスト)』ではなく『アッラー』になってます。
まぁ、バックルはドイツ軍の『神』が刻まれた物をそのまま使ってますがね()
ただ、アッラーはドイツ語でもトルコ語でも綴りは ” Allah(Allāh) ” なのですが、どこで間違えたのか” Alla ” に、 ” Bilen ” も本来は ” Bilenleriz ” という表記ながら短縮化された誤字のまま採用になってますw
BeVo(機械織)タイプのみ存在。
この袖章はマニアの間でファーストタイプと呼ばれるもので、大半のトルキスタン義勇兵はこのタイプの袖章を着用しています。


この次、43年中盤に採用されたのがセカンドタイプと呼ばれる袖章。(これはBeVoと布プリントの両方存在)

トルキスタン地方の伝統的な軍旗を基にした水色とピンクの二色地に弓矢のデザインで、袖章自体の形状が楕円形から他の義勇部隊と同じ盾形になりました。
文字も上部に ” TURKISTAN ” のみ。
これは後述のイタリア戦線に投入された第162テュルク歩兵師団の将兵が主に着用していたようです。
生産数は多くはないようで、写真もファーストタイプに比べあまり見られません。


最後にサードタイプと呼ばれる袖章。

44年中盤に採用。(これはプリントタイプのみ存在)
ファーストタイプのようなモスクを描いた楕円形デザインに戻りました。
ファーストでは ” Biz ALLA Bilen ” だった文字が、旧トルコ語表記になってます。
読み方やちゃんとした意味は存じませんが、『我らは神を信ずる』みたいな意味だそうで。
現存する実物らしき未加工の袖章単体の写真は見るものの、実際に将兵が服の袖に装用しているのは、とある週間ニュースでしか見た事がありません。

あまり知識ない自分が言うのも何ですが、週刊ニュース見てて見つけたこの一瞬(この週刊ニュースの動画は削除されてました…)以外にこの袖章の装用例を見たことがないため、制定年度的に考えてもセカンド以上に少ないごく僅かな使用率かと思います。
ちなみにこのサードタイプ、映画『マイウェイ ~12000キロの真実~』で主人公たちが配属されたトルキスタン義勇部隊で、主人公らをはじめ全員が袖につけていました。

映画の内容や考証はあえて何も言いません()
まぁ妙なB級ロシア映画以外でオストトルッペンが出てくる(それも主人公がオストトルッペン)のは面白いんじゃないでしょうか?(苦笑)


話は戻って襟章。

襟章はカフカス系義勇兵用で、濃緑もしくはフェルトグラウ生地でパイピングの民族色は水色。
形状はSS襟章と空軍襟章の型紙を流用?した2種、装甲科襟章の型紙を流用?した1種、装甲科襟章タイプのものをパイピング含めBeVo(機械織り)で作られたものの計4種。
写真のは濃緑生地ベースの伍長。階級章は以前の記事参照。
ただ、初期は新規型紙らしき台形もしくは空軍襟章型紙の赤い生地でパイピングなしのものが各東方部隊共通襟章として使用されています。
肩章もジョージア(グルジア)義勇部隊なんかと同じで、各民族色のパイピングのついた角型が43年頃に制定されていますが、着用例は滅多になし。
結局のとこ、大半が通常の歩兵科(白パイピング)の肩章を汎用タイプとして流用しています。
パイピング色的に色の近い輸送科(ライトブルー)の肩章なんかも使ってるかもしれませんが、白黒写真じゃほとんど判別不能。
例にもれず、専用徽章を必ずしも全員がフルにつけているわけではなく、襟章は通常のドイツ陸軍のままだったり、袖章すらついてなくてタタールやカルムィクと区別つかなかったり…

ちなみに、この写真がトルキスタン義勇兵とかいう海外サイトもありますが違います。

この人は蒋介石の次男である蒋緯国のドイツ軍時代の写真です。
西部戦線やイタリア戦線で連合軍兵士たちが「日本人のドイツ兵を見た」という話が結構あったりしますが、ごく少数の在西欧日本人留学生なんかがドイツ軍に入っていたのは事実だろうけど、たいていはトルキスタンやタタールやカルムィクなんかのアジア面の義勇兵を見て勘違いしたものです。

これは軍旗のイラスト。

セカンドタイプ袖章のデザイン元。



トルキスタン義勇部隊は、西部戦線・東部戦線・イタリア戦線と主要戦線全てに投入され各地に展開しており、アジア面が多いため一発でゲルマンやラテン、スラブと違うのが分かります。

43年夏頃、捕虜収容所がら産地直送されたところ。

転向してすぐ再教育を受けるところらしく、中隊長(左の中尉)と下士官たちによって順々に整列させています。
被服類も中古品を支給されたばかりで、徽章も元のままで汚い…
中隊長が手にしているのは以前ちょろっと紹介した通訳本の一種。
中隊長の苦笑いした表情と下士官たちの複雑な表情、義勇兵たちの収容所から解放された喜びの表情の違いが見てとれますw


以前使った写真。

右の二等兵の襟章はフェルトグラウに見えなくもないけど、他2人は明らかに赤系です。
左の二等兵は40年型、他は36年型野戦服。袖章は左の二等兵しか着けていないようです。
肩章は左の二等兵が白パイピングですが、他は赤とかの色かと。
服は中古ですが、ベルトがやたらと新品くさいw


42年に編成直後の一連の写真。

義勇大尉の演説。


宣誓。

後ろでマイクで宣誓しているのは多分宗教指導者。
ヨレヨレでサイズまちまちの中古服蛮族集団。
左袖にトレッセつけてる兵がいますが、初期の階級章もしくは役職章です。


軍旗と軍楽隊。

まだなんとか軍楽隊は存続してます。


爽やか笑顔の伍長。

顔まわりしか写ってませんが、典型的な徽章例。
襟章はおそらく赤ウール生地のもので、肩章パイピングも赤かそれに近い濃い色。


44年はじめの東部戦線での1枚。

これも典型的徽章の伍長。
徽章が結構鮮明に見えます。
こちらは先のと違って濃緑生地の襟章です。


これは北フランスでの写真。
ファーストタイプの袖章をつけています。


3名に見られる階級章は変則例のため、縦線1本で上等兵です。
前列右から2番目は40年型、他はオランダ改造野戦服を着ています。

一応これが本来の無改造のオランダ軍服。

立襟、ダブルカフス風の袖口、ドイツ軍服に比べかなり下気味で隠しボタンの胸ポケット、腰ポケットなし、前合わせ7個ボタン、ベルトラインから上と下に別れたパーツ別け、肩章は着脱不可な全周縫い付け。

これは改造服(ロシア解放軍仕様)。

襟をドイツ軍の40~42年型野戦服等の製造ラインから流用した折り襟に交換、肩章を取り外してドイツ式の着脱可能な肩章用ループ式に改造し、胸ポケットも隠しボタン式から露出ボタン式に、元々のザイテンハーケン(ベルトフック)は外してドイツ軍タイプを使用できる用専用穴と内装サスペンダー(42年型以降のような服に直接縫い付けるタイプ)を追加、全てのボタンをドイツ軍のものに付け替えています。
また、腰ポケットを増設しており、ドイツ軍の40~42年型野戦服等(写真では42年型)から流用のポケットを付けていますが、これは付けてないタイプも少数存在。
オランダ改造野戦服は、軍服不足解消のために大量に投入された外国軍服の中でも特に多いもので、上記改造を施した上で普通のドイツ陸軍はじめ様々な東方部隊で多用されています。
占領した外国軍服の中でもともと一番色が近く流用しやすいため多用されましたが、生地色が微妙に違うので初期のドイツ軍ウールであっても色味に差が出るため、白黒写真でも生地色の差がわかります。


これもオランダ改造野戦服。

44年フランスでの2人の二等兵。ズボンも外国軍のらしきものを履いてます。


これは以前も使った中隊先任下士官の写真。

階級は伍長。
襟章が変に見えますが、これは以前も紹介した通常のドッペルリッツェンの上から直接トレッセを縫い付けているパターンなため。
本来なら先任下士はドイツ人が務めるものですが、数が揃えきれないため、義勇兵でもある程度は存在。
伍長で先任下士ってのは珍しいですが。


イタリアの写真館で記念撮影したと言われている4人の義勇兵。

海外サイトでは彼らは日本人だの朝鮮人だの言われてますが…w
それはともかく、セカンドタイプ袖章を着用。服や徽章のばらつきが一目でわかります。
前列右の兵以外は胸のアドラー(鷲章)が通常のドイツ軍のものでなく、東方アドラーといわれる東方部隊用のアドラーです。

ソ連圏の劣等人種がドイツ軍のアドラーをつけることを許せなかったヒトラーは、42年に東方民族によるドイツ軍アドラーの装用を禁止し、東方民族用の徽章を作らせました。
が、実際は色々面倒だし無理があるので、結局はドイツ軍アドラーそのままだったり、ドイツ軍アドラーひっぺがして無徽章な場合が大半でした。
そのため、東方アドラーは生産数が少なく支給数は更に少数で、義勇保安部隊やコサック、トルキスタンのごく一部で使用されてます。
ちなみにこの東方アドラー、本来は上下が逆です。

↑正しい向き。
この徽章をつけた写真を見る限り、全てが通常のドイツ軍アドラーの羽の向きに合わせて縫い付けられてしまっていますw


これは砲兵伍長。後述の第162テュルク歩兵師団所属。

先と同じセカンドタイプ袖章を着用。よく見ると縁を裏に折り込まずに原端の周囲をそのまま縫い付けてます。
他の義勇部隊含め、この縫い付け方法はたまに見られるパターンで、単に縫付工程短縮のためにやっているため。
(徽章は個人での縫い付けではなく、中隊なり大隊本部の裁縫や加工の担当班が縫い付ける)
服は占領したフランスから接収した青味の強いウール生地を使用して東方部隊用に製造された、ギムナスチョルカ(ロシアのプルオーバー式の服)型の野戦服。

これもロシア解放軍仕様。
ロシア解放軍とトルキスタン義勇部隊に一定数が支給されたらしく、写真でもたまに見られます。


ドイツ人の大尉と下士官から点検をうける義勇兵中隊。

パッと見は通常野戦服に見えますが、これも上の写真と同じギムナスチョルカ型野戦服を着用しています。
ただこれは腰ポケット増設したバージョン。ずいぶん下に腰ポケットがついており、縫い位置も微妙にバラバラ。
何人かは襟章がついていない模様。
ドイツ人大尉と下士官の野戦服との色合いもだいぶ違います。
それにしても緊張感もクソもない体たらく…


兵舎の入口での一コマ。

帰営した際の身分確認なのか、ゾルトブーフらしき身分証を守衛(ドイツ人?)に提示しています。
右袖が見えないので袖章の有無がわかりませんが、標準的な42年型野戦服。襟章はそのままで、肩章だけでなく左袖にも上等兵の階級章といった、たまに見かけるスタイルです。
両者とも肩章にトレッセとは違う線があり、色も違うため、中隊の識別紐か何か?


フランスでの記念写真の一枚。

かなりくたびれた中古の40年型野戦服で、ファーストタイプ袖章を追加した以外は元の使用者が使ってたままの状態でしょう。


44年フランスでの1枚。

ドイツ人下士官の記念写真で、左端の伍長は袖章からしてタタール義勇部隊所属。その右隣がトルキスタン義勇部隊所属。
他2人は袖章が確認できませんが、左端以外は歩兵突撃章に戦傷章、2級鉄十字に東部戦線従軍章とベテランさんがた。
やはり義勇部隊の下士官は通常部隊よりも統率力を求められるため、メンコの多い古参や戦歴のある者です。


44年1月にノルマンディー海岸を視察中のロンメル。

左の眼鏡かけた中尉がトルキスタン義勇部隊のドイツ人将校。
シワや影のせいかもしれませんが、チンコードつけたクラッシュキャップや肩章の兵科色が白や明色に見えない…


ロンメルの閲兵を受ける義勇兵たち。

ボタン数からして、ほぼ全員がオランダ改造服。
ガスケープなんて持ってますw
オランダ改造服は共襟や濃緑襟が混在し、ヘルムも16~42年型らしきものが混在。


ノルマンディーで捕虜となった兵士。



7月に英軍第51ハイランド歩兵師団の捕虜となった伍長と二等兵。
伍長のほうはウズベキスタン出身のFazlitdinovという人だそうで、戦後にソ連へ引き渡されたそうです()


8cm迫撃砲の操作訓練中の一枚。

弾薬手は36年型コート、照準手は40年型コートでどちらもP37ベルト、班長は単色アノラックを着用し、全員が16年型・18年型ヘルメットです。班長はPPSh41らしき銃を下げてますが、不鮮明。


訓練中の一枚。

写りきってないですが、中隊での訓練らしく、監督している軍曹の伏せの号令で咄嗟に伏せたところ?
被服類が凄まじいバラつきかたです。


よくわからない集合写真


前列中央の制帽被った人物は党関係?の組織なのかもしれませんが、党組織は門外漢なのでさっぱり…
いかにもなモンゴロイド系とスラブあたりの血が入ってそうな顔つきがよくわかります。
野戦服は36年型から43年型にオランダ改造服等バラバラで、袖章の有無もバラバラ。
一番左端の伍長は空軍のベルトバックルをしていますが、これは東方部隊でたまに見られる例。空軍ヘルム被ってたりする例もごく希に。
まぁそれ以上に、その伍長の右隣の二等兵は矢印にある通り、SS略帽を被っています。ただ、他の被服は完全に陸軍のもの。
また、最後列左から2人目の伍長はSSバックルながら、これまた他の被服類は陸軍です(規格帽の帽章も髑髏ぽく見えなくもないですが不鮮明)。
これは、後述のSSトルキスタン部隊の写真の可能性があり、一部将兵が部分的にSSの装備・被服を支給されたためです。
大抵の場合、在庫や補給事情等の問題で帽子類とベルトバックルおよびSSアドラー程度の部分的なものしか支給されない(というかそうするしかない)ためで、階級等関係なく被覆損耗による更新の際などに、同じ分隊内であっても差異が発生してしまうようです。
これは陸軍や警察の所属から武装SSに移った他の義勇部隊(コサック等)にも共通します。
(だから党関係の人がいる?)


将校・下士官の集合写真。



並んで座った義勇下士官(右端は伍長、他は上級軍曹)を中心に、立っているのがドイツ人の将校・下士官。
何ともいえませんが、義勇大隊の各中隊長(ドイツ人)とその中隊の上級下士官(義勇兵)および大隊本部の一部(ドイツ人)の集合写真?
後列4人の将校の左端の人物は、徽章の形状や制帽のバンドとパイピング色的にSonderführer(ゾンダー・フューラー:特別指導者)という軍属で、技術者・地理学者・民族学者・言語学者等の何らかの技術や知識を持つ、ドイツ人ないし民族ドイツ人の専門家です。東方部隊に限らず、外人部隊においてはドイツ人基幹要員との通訳や宗教・文化の疎通・指導役として多数が配属されており、外人部隊の写真では比較的よく見られます。
残り3人は尉官てことしか分かりせんが、両脇は中尉(真ん中は中尉か大尉?)のようなので3人とも中隊長でしょう。
ちなみに、座ってる6人(右端は伍長、他は上級軍曹)のうち、左から3番目はドイツ軍の略帽ですが、他は全員オランダ軍改造略帽です。


何枚か連続の写真。キャプションでは43年7月。




少尉(右)と上級軍曹(左)を先頭に3列縦隊で行進(2枚目は少尉が抜けてます)。
1列20人ちょっとの若干小ぶりな3個小隊の中隊(キャプションにも第3中隊とありました)。
となると、先頭の少尉は中隊長ってことでしょうか。中尉で中隊長ならわかるけど少尉で中隊長とは…
まあ以前の記事でごちゃごちゃ悩んだ階級章の違い(襟章を口字にトレッセつけた階級が少尉か上級軍曹か)的には、先頭2人は少尉と上級軍曹。少尉のほうだけ略帽に銀モール縁取りついてますし。人員の問題で中隊長なのかな?
見える範囲では上級軍曹以外は36~40年型野戦服着用。上級軍曹はオランダ改造服。袖章の有無がバラバラ。


上の写真の下士官・将校集合写真。

双眼鏡下げてるのが縦隊先頭にいた小隊長と思われる軍曹たち。
やはり袖章の有無がバラバラです。少尉は戦傷章黒がチラっと見えます。
上級軍曹以外40年型野戦服ですが、光源の差とは思えない色味のバラつき。


同じ中隊の集合写真。


隊伍後列にいて見えなかった中隊員たちが映っていますが、かなり濃い色のどっかしらの外国軍服を着ている者が多数います。
やはり袖章の有無にバラつきがあります。


また同じ中隊の写真。

相撲を楽しんでる和やかな雰囲気の一枚です。


別中隊の少尉と上等兵。

少尉のほうは袖章なしの36年型野戦服に制帽スタイル。2級東方メダル銅章リボン佩用。
乗馬ズボンに比してブーツ丈短くてダサいw
上等兵は40年型野戦服にファーストタイプ袖章。


詳細不明の記念写真。

前列座ってる2人は上等兵ながら下士官兵用制帽を被ってます。私費購入?
後列中央2人は襟がブランク状態。
後列左から2人目はジョージア人で、被ってるのは山岳帽?
トルキスタン義勇兵とジョージア義勇兵が所属する第162テュルク歩兵師団の所属、もしくは単に同じ地域に駐屯していて何かの縁でって感じでしょうか。


虫歯ガリガリ削ってるとこw

43年になって、東方部隊の義勇兵もこれらの医療サービスを自由に受けることができるようになりましたw


酒保で何か買ってるところ。

斜めに並べた購入品、見た感じ大きさ・形的に突撃一番のような…w
こういった買い物も、43年になってから東方義勇兵に対しての給与が支払われるようになったことで可能になりました。
つまり、それ以前はブラック企業ドイツ軍において東の民は無給のタダ働きでしたw(まあ収容所で飢えと寒さでくたばるよりはマシでしょうが)
奥の二等兵はオランダ略帽を被っています。


休暇で外出中のグループ。


文官か私服外出と思われる黒スーツの人物とフランスの田舎町を散策中の模様。

同じグループの写真。

ここでも通訳としてSonderführer(1枚目左から2番目、3枚目左端)がいます。
右から2番目の義勇少尉は兵用肩章改造の義勇将校肩章をつけています。
わざわざ外出用に買ったとおもわれる礼装・外出用の兵科パイピング入りストレートズボンを履いており、服も仕立ての勤務服です。


飲酒してるところ。

黒ビールと水もしくはシュナップスで一杯やってます。
教義的には本来はアウトですが、まぁ原理主義でなければOKだからいいのかな。


模型を使った下士官向けの分隊戦術講義か何かの写真。


講義しているのはドイツ人少尉。
少尉ながら一級鉄十字や歩兵突撃章を受けていて20代には見えんので、下士官上がりのベテランさんでしょう。
義勇下士官たちの襟章の生地色が濃緑と赤らしき色の2パターン混在しているのがよく分かります。
ここでも36~43年型野戦服にオランダ改造服でごちゃごちゃしてます。
義勇兵たちのほぼ全員が42年型略帽を被っています。普通のドイツ軍ではなかなか見かけませんが、東方部隊に関しては42年型略帽の着用率がかなり高いです。まあ、転向して選別されドイツ式再訓練されてからの被服支給や配属なんかの時期からして43年ごろなので、ちょうど42年型略帽のまとまった支給時期と被ってそうなので自然な流れなのかなぁと。


また同じ部隊の写真。チェスを楽しむ義勇兵たち。

はたしてチェスのルールわかってるのか否か。
さっきと同じ少尉や下士官が映っています。
後ろにちょろっと映ってる規格帽の下士官は肩章からして通訳のSonderführer。


またまた同じ部隊の写真。

今度はトランプ遊び。
先の写真とで、襟章が変則例の縦線1本のやつがちらほら。


さらに同じ部隊の写真。新聞に目を通す上等兵。

これも襟章は縦線1本。
新聞はトルキスタン義勇兵向けに発行されたトルコ語表記のものです。
はたして識字率はどの程度だったのか…


さらにさらに同じ部隊。

戦闘装備で整列中。
珍しく?中の人間以外はドイツ製の装備で統一されています。


さらにさらにさらに同じ部隊。

サーベル抜いて変なポーズしたおふざけ写真。
これら同じ部隊の一連の写真は後述のSSトルキスタン部隊初期との記述もありますが、実際のところ不明。


捕虜になった集団。

とても臭そう。
もらったレーションを興味深げに見てます。


以下はイスラム教徒部隊であるトルキスタン義勇部隊独特の、イスラムらしい写真。
一応、宗教上の最高指導者である、アミーン・アル・フサイニー(白い帽子のおっさん)。

これはアゼルバイジャン義勇部隊を訪問中の写真。
彼は枢軸側についたイスラム教徒全体の宗教指導者であり、異常なまでに狂信的な反ユダヤ主義者で扇動家。
ユダヤ嫌いなら皆仲間とばかりに故国を追われると枢軸側に亡命。亡命後はドイツ人もドン引きするくらい徹底的にユダヤ人をぶっ殺すようにムスリム系義勇部隊に言い聞かせています。
リンクにもあるように第13SS義勇山岳師団やアゼルバイジャンなどのイスラム教徒部隊の謁兵をしてる写真がちょくちょくあります。

が、ムスリム系義勇部隊で最大規模のトルキスタン義勇部隊を訪問してる写真がありません。
宗派か何かの問題で行ってないのか?
(もしそうならトルキスタンと関係ないですが…w)


サラート(イスラムの礼拝)中の一枚。

白い帽子を被ったウラマーという聖職者(従軍司祭的な人)を先頭に、見た感じ大隊ほぼ総出でお祈り中。


同じくサラート中の一枚。

ウラマーがお説法か何かしてるとこ。
中隊程度の規模のようですが、ウラマーと対面している先頭3名は士官ではなく下士官。


サラートの前後と思われる風景。

皆ファーストタイプ袖章をつけています。
最前列右から1、3、4番目の下士官兵が襟につけている三日月型の徽章が謎。
これはトルキスタン義勇部隊や後述のSSトルキスタン義勇部隊でも希に使用例があるも、着用基準は一切不明。


兵舎の前に作った何かのモニュメント?


外人部隊は自分たちの袖章や国旗を模ったモこの手のニュメント作ってる写真がちらほらあります。


そして…

トルキスタン義勇兵用の墓。
墓板にはしっかり袖章と同じ絵まで書かれ、綺麗な花まで。



さて、以前も触れたように陸軍の東方部隊は基本的に大隊規模で編成・運用され終戦まで存続しますが、例外的に師団規模の部隊が編成されています。
162. (Turk.) Infanterie-Division(第162テュルク歩兵師団)という名で、トルキスタン第I./44、I./94、I./100、I./297、I./305、I./371、I./384野戦大隊(第I./94大隊はのちに武装SSに編入)を中心にアゼルバイジャン、アルメニア、ジョージア人部隊の一部を加えたカフカス地方出身者たちの師団として、東プロイセンのノイハマーにて編成・訓練を開始。43年5月21日にシュテッティンで編成を完了。
同年9月に勝手に降伏したイタリアの武装解除および占領のため、10月から終戦にかけて終始イタリアで米英軍やパルチザンと戦いました。
師団本部はリグーリアやリミニ、ボローニャ等の半島の付け根あたりを転々としていましたが、師団主力はアンツィオ近郊の戦いで意外と活躍。
セニオ戦線で第4降下猟兵師団やRSIのデチマ・マス師団とともに戦い、英軍第2空挺旅団との戦闘で45年2月に壊滅するまで善戦しました。
壊滅後は残りカスが終戦までパルチザン狩りに投入され、5月8日にパドヴァ近郊で英軍に投降。
案の定、師団将兵はソ連に引き渡されました()

まぁさすがに「師団」というだけあって、3個歩兵連隊(第3連隊は44年8月15日に編成)に各1個の砲兵連隊、装甲偵察大隊、戦車猟兵大隊、工兵大隊、通信中隊等を保有。
師団長はじめ各連隊長・大隊長等の基幹要員はドイツ人でしたが、兵・下士官クラスはほとんどが義勇兵という編成内容。
(大戦後半からロシア解放軍やコサック、SS東方部隊等も連隊~軍団で編成されてますが、どれもSS管轄もしくは編成にSSが絡んでおり、陸軍の直接編成・指揮下においは最後まで第162テュルク歩兵師団以外は大隊運用となっていました)

1代目(43年5月13日~44年5月21日)の師団長 Oskar Ritter von Niedermayer (オスカー・リッター・フォン・ニーダーマイヤー)少将。

ニーダーマイヤー少将曰く、そこら辺の普通のドイツ人師団よりよっぽど従順で有能で運用しやすかったそうです。

ニーダーマイヤー少将の閲兵を受ける兵士たち。

少将のちょっと複雑な視線。
ベルトは英軍のP37ベルト、たすき掛けにしてるのは雑嚢代わりのソ連軍ガスマスクバッグ。小銃もモシンナガン。そしてアジア面。
…まぁこんなんじゃね。
対して奥の軍曹さんはカメラ目線でドヤ顔。
全員袖章なし。


こちらは後任の2代目(44年5月21日~終戦まで)師団長 Ralph von Heygendorff (ラルフ・フォン・ハイゲンドルフ)中将。

彼は43年4月から当師団長職拝命まで、東方民族部隊総監(全東方部隊を纏めるドイツ人総監)の職にありました。(後任の東方民族部隊総監はエルンスト・アウグスト・ケストリンク騎兵大将)

ハイゲンドルフ中将の閲兵を受ける兵士たち。


ハイゲンドルフ中将の向かって左の将校は通訳のSonderführer。


44年中旬の1枚。

新聞と何かしらの読み物を渡されたところらしく、立ち読み中。
比較的温暖な時期なため、ドイツ人将校以外は熱帯服や熱帯帽姿、中央の兵(下士官?)に至ってはヘムト姿です。
在庫の熱帯服を渡されても袖章が足りなかったのか、まったく袖章が見られません。


砲撃訓練中の写真。

あまり砲は詳しくないですが、10.5cm軽榴弾砲?かそれに近い10cmクラスの軽榴弾砲の模様。
上の写真と同じく左右の二等兵は熱帯服、真ん中の二等兵は42年型野戦服で、イタリア戦線にありがちな熱帯服に革ベルト組み合わせ。これも袖章がありません。
この砲から発射する通算5000発目の砲弾らしく、記念のペイント入り弾頭を持った装填手はかなりご満悦。


東方メダル授与シーン。

握手している上等兵以外は伍長。
36、42、43年型野戦服が混在しており、奥2人は濃緑ベースの襟章、真ん中は襟章なし、手前2人は赤ないしフェルトグラウベースの襟章。
すっげー嬉しそうw


以下何枚かは43~44年のイタリアで当師団の兵士たちが撮った写真館での記念写真。
冒頭でも書いたように、この師団ではファーストタイプ袖章のほかにセカンドタイプ袖章が散見されます。
超モンゴル系なお顔1。

43年型野戦服にチラッとセカンドタイプ袖章が見えます。
シャツの襟出して前合わせ全開で髪型もアレで、一昔前の田舎の中途半端にグレたヤンキーのようなスタイルです。
袖章以外は標準的な陸軍徽章スタイル。


超モンゴル系なお顔2。

これもセカンドタイプの袖章。
上の写真と同じで、43年型野戦服に袖章以外は標準的な陸軍徽章スタイル。
第2ボタンに2級東方メダル銅章リボン。
濃緑肩章ですが、パイピングが襟章やアドラーとの色味の違い的に、トルキスタンの民族色(水色)と同じ補給科の肩章を流用?


超モンゴル系なお顔3。

36年型野戦服で、同じく標準的な陸軍の徽章スタイル。
かなり鮮明に映った写真のため、ウールの毛の飛び具合がよくわかります。
左袖口の折り返しが気になるけど、腕時計を写すために捲ってるだけ?w


珍しいパターンのドイツ人下士官。

セカンドタイプ袖章。42年型なのか43年型なのかいまいちわからない野戦服。
ただ、陸軍下士官にはなかなかない襟周りのトレッセが無いパターン。肩章にも何らかのモノグラムが付いてるけど不鮮明。偵察(Aufklärungs)のAモノグラム?
下士官ではそんなに多くない1級戦功十字章保持者で、2級東方メダル銀章を胸ポケットフラップ内側から佩用(2級東方メダルではたまにいる佩用方法)。第2ボタンには東部戦線従軍章に2級鉄十字章。2鉄はメダル本体のリングを糸で縫いつけていますが、なんだか形状が変。リボンも赤白黒の配色というより、白黒のみの1次戦型に見えます。まあ40代くらいに見えるから、前大戦従軍時に受章したもの?


装甲科さん。

ドイツ人ぽいけどイタリア黒シャツらしき襟を出すオシャレさん。セカンドタイプ袖章。
パンツァーヤッケでなく43年型野戦服でセカンドタイプ袖章。
戦車突撃章、戦傷章黒、2級鉄十字佩用。


これまた装甲科さん。

これもセカンドタイプ袖章。今度は熱帯服。
2級戦功十字と戦傷章佩用。
襟章はアフリカ軍団装甲科の熱帯服においての通常の装用方法(下襟に髑髏章)でなく、普通にパンツァーヤッケ用の襟章をつけてます。


こっちは本チャンのパンツァーヤッケ着た人。

ドイツ人なんだか外人なんだかわからんです。これもセカンドタイプ袖章。
2級戦功十字佩用。
略帽の帽章が黒略帽用でなく、一般のフェルトグラウベースのもの(これは普通のドイツ陸軍装甲科でも見られるパターン)。
右襟の髑髏章がないのが謎。


これもパンツァーヤッケの装甲科下士官。

今度はまともなパンツァーヤッケ着てます。
これまたセカンドタイプ袖章。
2級鉄十字と戦傷章を佩用していますが、戦傷章は銀章か金章?

ここまでの記念写真、背景の幕がかなり似てる(というか何枚かは同じシワ)ことから同じ写真館で撮られたもののようです。
野戦服の面々は皆肩章の色が白には見えないし、むしろパンツァーヤッケの面子と同じパイピング色に見えるため、もしかしたら同じ装甲偵察大隊(Aufklärungs-Abteilung 236)なのかも。
(ただ、そうなるとパイピング色は騎兵のゴールデンイエローですが、そんな感じには見えない…)


拳銃構えて記念写真。

40年型野戦服を着用した上等兵。
拳銃は外人部隊にありがちなポーランドのラドムM1935。
東の民は記念写真でやたら武器を抜いて撮影したがりますが、いい例です。



で、この師団、トルキスタンとアゼルバイジャンはイスラム教、アルメニアとジョージアは正教という宗教構成で、人種や言語や慣習その他諸々がバラバラなので、彼らを指揮するドイツ人将兵はさぞかし苦労したことでしょう。
(普通の)ドイツ軍では各連隊の駐屯地によって糧食のメニューがある程度違う(郷土料理的な)とのことですが、こんな蛮族も例外ではありません。不完全ながら、義勇兵たちの国や民族向けの糧食を作る配慮はしてます。
ドイツ人は豚肉大好き。色んな食品に豚を使います。やつらは豚の何から何まで食します。
イスラム教徒は教義上、豚をはじめいくつかの動物を食べることができませんし、豚以外でも手順に則った屠殺方法でなければなりません。
↑ 面倒くさそうでしょう?
まぁ下の写真見る限り、実際問題どの程度守っていたかは疑問ですが…


羊かヤギを屠殺し食べてる最中のようですが、普通にぶった切ってます。

靴脱いであぐらかいて食事する、ヨーロッパを感じさせない風景。

スープなんかもラードやら豚肉ぶち込むものが多いから、それなりに苦労したことでしょう。
パンもドイツの所謂黒パンとか、口に合ったのかなぁ…



最後に、武装SSトルキスタン部隊について。
43年11月に陸軍管轄からSS管轄に移されたトルキスタン義勇部隊(第450、480野戦大隊、第I./94歩兵大隊)を基幹に、先にSS管轄となって編成されていたSS武装山岳旅団「タタール第1」(←いつか書く…いつか…w)から抽出されたアゼルバイジャンやタタール等のムスリム義勇部隊の一部を加えて編成し、改編・改名が何度か行われており、名称は
Ostmuselmanische SS-Division(東ムスリムSS師団)
→ Turkmuselmanische Division(トゥルク・ムスリム師団)
→ Muselmanische SS-Division“Neu-Turkistan“(ムスリムSS師団「新トルキスタン」)
→最終的に Ost Türkischer Waffen - Verband der SS (オスト・トゥルキッシャー・ヴァッフェン・フェアバント・デアSS)…SS東トルコ武装部隊とかいう壮大な部隊名になり、44年末には専用のカフタイトルと襟章が制定されます。

↑その専用徽章(上半分のカフタイトルと襟章)。
例に漏れず、制定はされたものの実際には全く使用されず、完全に武装SSの徽章つけた武装SSの服着てたり、先述の写真のように被服や徽章は陸軍のままだったり、陸軍の軍服から徽章を外してSSのものに置き換える程度に留まるというのが実情でした。
また、第162歩兵師団と違い、部隊規模自体も「師団」の名を冠していた時期があるものの、末期ドイツ軍にありがちな終始旅団以下の規模なオチです。

このSSトルキスタン部隊、スロバキアでの編成完了後はベラルーシでパルチザン狩りに従事し、本隊とは別で訓練中の中隊が44年8月のワルシャワ国内軍蜂起で所謂ディルレワンガー師団とともに鎮圧作戦に従事。
それ以降は、これといった大きな戦闘をしないまま対パルチザン戦をしながらスロヴァキアに移動。
この前後に、他のカフカス系SS義勇部隊編成のため引き抜かれたり補充されたりを繰り返し、連隊規模くらいになって45年3月にオーストリア・イタリア国境あたりに移動。対パルチザン戦を継続し、そのまま終戦を迎え米軍に投降。
そしてやはり、ソ連に引き渡されました()

これはSSトルキスタン部隊がサラートをする場面を記録したカラー映像(音声なし)。

先頭白ターバンのヒゲのSS義勇少尉は先述の三日月章を左襟につけています。

こちらは同部隊を紹介した週間ニュースのプロパガンダ映像。

カラーのほうもですが、陸軍トルキスタン部隊の袖章や襟章が一切見受けられません。
アドラー・襟章・肩章(襟章・肩章はつけてない者も多数)や帽子類が全て武装SSのものになっています。

週間ニュースで名前出てますが、どちらも閲兵しているのは Harun el Raschid-bey (ハルン・エル・ラシード・バイ) SS大佐。
1886年オーストリア生まれで、Wilhelm Hintersatz (ヴィルヘルム・ヒンターザッツ)という名前の、純粋なオーストリア人でカトリックでした。
第1次大戦にドイツ陸軍歩兵中尉として従軍し、1916年には大尉で陸軍航空隊所属となり1・2級鉄十字章を受章。
1917年に少佐としてオスマン帝国に軍事顧問として派遣された際、どうもイスラム教に感銘をうけたらしく、イスラム教へ改宗w
戦後の1919年には退役し、全盛期のアッバース朝に君臨した偉大なる帝王といわれる Harun al-Rashid (ハールーン・アッ=ラシード)を倣い、Harun el Raschid-bey という名前に改名(少数派ながら同じような理由で改宗したドイツ軍人はいるようです)。

これは第1次大戦末期の少佐時代の写真。服装とか、なんかもう染まっちゃってる感じが。
第2次大戦までは物書きとして何冊か本を出版。1939年に軍に復帰し、ドイツ陸軍予備役少佐として国防軍最高指令部に勤務。
ムスリムでありナチ党員ではなかったものの、のちに武装SSに転属。44年6月30日にSS少佐、同年10月1日にはSS大佐となり、10月20日にムスリムであることが適任とされたのかSSトルキスタン部隊の指揮官となった異色の人物です。SSでは宗教から離れることを推奨(強制ってわけではない)はしとりましたが、イスラムに改宗した人物でこの人事は面白いですね。
まぁボロ負け確定してるが故に出した、プロパガンダも兼ねたヤケクソ人事かもしれませんが。
とりあえず彼は終戦前に同部隊から異動し、何だかんだで生き残り、戦後は物書きに戻ったんだそうな。


まぁこれは改宗しようが何だろうがドイツ人。
もちろん、非ドイツ人のトルキスタン義勇兵は例に漏れず、生き残りの大半が第162歩兵師団やSSトルキスタン部隊に同じく戦後ソ連に強制送還され、処刑かシベリア流刑なオチでした。

ちなみに、先に登場したフサイニーは終戦時に英軍に逮捕・収監されるも脱獄。
各地を転々とし、反ユダヤ煽動を継続しましたw



だす えんで
(上の写真がわからない人はマイウェイ見てw)


●参考
https://reibert.info/
http://www.axishistory.com/
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/
http://en.wikipedia.org/wiki/Ostlegionen
http://www.wehrmacht-awards.com/forums/index.php
イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~(ユルゲン・トールヴァルト著)
  


Posted by ジェレミア at 17:36Comments(2)東方部隊の各種民族部隊

2014年04月18日

東方部隊とは

またも久々なうえに、いくつか記事書いておいて超今更ですが、そもそも東方部隊って何?という事を書いてませんでしたねw

東方部隊(Osttruppen:オスト・トルッペン)とは、ソ連を構成する諸国の人員により編成されたドイツ軍の戦闘部隊です(非ソ連圏の東ヨーロッパ義勇部隊は東方部隊ではない)。
以前書いたシューマはSS管轄の治安維持部隊であるため、別組織です。
ロシア解放軍やコサックなどのロシア系とバルト三国の組織・部隊は東方部隊に分類されない場合がありますが、広義的に東方部隊というくくりとします。

構成人員の経緯は様々ですが、最も割合が多いのは独ソ戦がはじまった1941年6月からの戦闘において、ドイツ軍の捕虜となった元赤軍の将兵です。
赤軍は開戦早々に国土と訓練された将兵の多くを失い、ソ連各地から片っ端から徴兵しまくって、ロクな装備も訓練もないままドイツ軍にぶつけて消耗するピクミン方式の戦術で、更に膨大な損失を出したのは有名でしょう。
が、強制徴兵され消耗品として投入された当人たちとしてはたまったもんじゃありません。
赤軍に対する反感や失望、それ以前の政策や大粛清でウンザリ。

そして、運良く命は助かるもドイツ軍の捕虜に。
赤軍では戦陣訓よろしく敵の捕虜になることは許されていないため、脱走できてもお先真っ暗。
更に、ドイツの捕虜収容所はキャパがいっぱいなうえに、そもそもロシア人なんて一定数はくたばらせる政策であったため、ブラック企業も裸足で逃げ出す労働環境と飢餓と疫病。

そんななか、赤軍やっつけて新しい国家作ろう!義勇兵募集中!とか言われたら、寝返って当然でしょうw

赤軍に対する憎悪や反発が理由で自ら望んで寝返る者と、帰っても処刑か懲罰だしこのまま収容所いてもそのうち死んじゃうし…という行き場がない故の流動的かつ日和見的な理由の者の二者が殆どw

こういった状況下で誘導され強制された者も大勢でしたが、大部分の寝返りの動機はこんな感じです。
他には、元帝政ロシア軍人で白軍として戦うも、白軍の敗北によりヨーロッパ各国に亡命し、独ソ戦開始に伴い馳せ参じた者、早々にドイツ軍に占領されたソ連諸国(ウクライナやベラルーシ、バルト三国)は反ソ感情が強いため、スターリン・共産主義打倒の他に祖国独立という願いのもと馳せ参じた非ロシア人などでしょうか。

42年7月にはソ連軍の名将アンドレイ・ウラソフ中将がヴォルホフの森の無謀で凄惨な戦いののちドイツ軍の捕虜になり、スターリンやソ連への恨みからドイツ軍に協力を申し出て、打倒スターリン・共産主義のスローガンを掲げて前線や捕虜収容所でプロパガンダ活動を行いました。

↑降伏や転向を促すビラ。やはり識字率が低いせいかイラストの割合が多かったり、そもそも文字無しのもまでw
私、ロシア語はさっぱりなのですが、さすがにこれは翻訳かけなくてもなんとなくイラストで意味は分かりますw

こんな感じの活動により、一気に投降兵や志願兵が急増。
このプロパガンダ活動には戦後に連邦情報庁長官となるゲーレン、東方部隊の編成問題には、44年7月20日の総統暗殺計画で知られるシュタウフェンベルク(東方部隊は国内予備軍預りであったため)が関わっていました。

ちなみに、赤軍捕虜は終戦までに580万人以上発生したそうですが、うち56%の約330万人は飢餓・疫病・凍死・処刑等で死亡、16%の約95万人がドイツ軍に転向、終戦まで捕虜が23%、脱走して赤軍懲罰部隊かパルチザンに合流が5%だそうです。
95万も寝返って16%…w
まぁ2人に1人死んじゃう収容所いるよりは、将来の不安なんかそっちのけで目先の自由に逃避しますわな…

というわけで、転向を申し出る100万近い将兵を共産主義打倒という共通の目標、および各々の祖国の解放や独立をスローガンに編成が思案されたのが東方部隊。


東方部隊とはまた別で、HiWiや東方労働者というのもあります。
HiWi(ヒヴィ)は HilfsWillige(ヒルフス・ヴィリーゲ)の略で補助協力者という意味。志願補助員という意訳もあります。日本語Wikiは相変わらず…w

HiWiの腕章。バリエーションは色々あります。
これは東方部隊とはまた違う組織というか人員で、戦闘要員ではなく土木・建築作業や補給部隊の補助や護衛、運転手、馬番、調理補助、機械整備、物資運搬、雑用係、人によっては死体処理等々…後方における都合の良い召使い(ぶっちゃけ奴隷w)的な支援作業が主です。
嫌がられ煙たがられる作業を押し付ける事ができるため、結構重宝したそうですw
このHiWiの場合は組織ではなく、個人もしくは小グループで投降して自発的に下働きを買って出て、収容所には送られずにそのまま投降先の各師団に名簿外の人員として組み込まれるパターンが多く、義勇兵以上に人数が曖昧…
少なくとも20~30万人(説によっては100万人)が存在したとか何とか。

東方労働者(Ostarbeiter:オスト・アルバイター)というのは、占領したソ連圏(多くはウクライナ人)の徴兵されなかった者や女性を半強制的にドイツ支配下の各地の工場勤務のため動員しているもので、純然たる労働者です。
これは300~500万人近く存在したんだとか。

いかに東方部隊や東方労働者がドイツを影で支えていたことか。
・・・・・・・・・・・・・とはいえ信用できないってのが本音w
無論というかなんというか、ヒトラーはさいしょ劣等人種であるソ連圏の投降兵を自軍に編入することを許可していませんでした。
しかし、中央軍集団のシェンケンドルフ大将が独断で小規模の義勇部隊の編成を決定。
41年9月、最初に編成されたのはコサック部隊。
旧帝政ロシア派が多く革命期に白軍の中核となっていたため(他にも理由ありますが)、ソ連政府から弾圧されていたコサックは、開戦後すぐに連隊や部族まるごと離反するパターンが多く、機械化部隊とは違った騎兵ならではの機動力や戦闘力を活用し、後方の鉄道や補給施設の警備任務につきました。

これは一定の成果があり、それなりに役立つ存在であると一応は証明できたため、正式に東方民族の義勇部隊を編成すべきとの要請が出て、42年はじめヒトラーは大隊以下の規模で各級指揮官が全員ドイツ人であればとの条件付きで渋々これを認めました。
これにより東方部隊の本格的な編成が始まり、西ヨーロッパの義勇部隊のように国家・民族・人種ごとに振り分けられました。

ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、ラトビア、リトアニア、アルメニア、アゼルバイジャン、グルジア、北カフカス、トルキスタン、ヴォルガ・タタール、クリミア・タタール、カルムィク等々…様々な国家・民族・人種の部隊が創設されます。
大半の部隊は陸軍の管轄で大部分が歩兵でしたが、一部は武装SS・海軍・空軍に編入されました。
海軍や空軍の場合、船乗りやパイロットも存在しましたが、基本的には基地警備や高射砲部隊の補助員です。
ロシア・ウクライナ・ベラルーシ・バルト三国およびタタール等の一部でSS・警察管轄のシューマ大隊が作られましたが、最初にも書いたように別物組織です。また、シューマ大隊の一部はのちに武装SS義勇部隊となっていきます。
(まぁコサックや一部カフカス系部隊は44年末~45年始めに武装SS 管轄となりますが。)


各東方部隊の袖章や階級章等の一覧。(

部隊編成にあたり、各級指揮官を全てドイツ人にせよとの総統命令でしたが、ただでさえ下級将校や下士官が不足しやすい戦時には到底不可能な要求であったため、可能な限り将校・下士官にドイツ人を充てつつ元将校・下士官だった捕虜を、再教育の後に不足分の指揮官職に充てていました。
大半の東方部隊は大隊規模で運用されるため、大隊指揮官と中隊・小隊・分隊指揮官の半分前後はお目付け役も兼ねドイツ人および民族ドイツ人がつき、あとの指揮官及び兵員のほぼ全ては義勇兵といった構成です。

連隊以上の規模での編成も存在(コサック軍団や第162トゥルク歩兵師団、45年編制のPOA師団等)しますが殆ど行わず、やはり基本は大隊規模で、陸軍のドイツ人1師団につき1〜2個(最大3個)大隊をなるべく別々の連隊に振り分けて編入し、万が一反逆した場合に鎮圧しやすくして備えています。
単一民族の大規模部隊編成は士気が向上するものの、民族意識や独立意識が高まって危険でありコントロールが難しいという理由もあるんだとか。

部隊名はそれぞれの国や民族の名前が入ります(例: Georgisches Infanterie-Bataillon 822→第822グルジア歩兵大隊)。
が、分類できなかったのかは不明ながら、単に Ost-Bataillon 〇〇〇 のような番号のみで国・民族名無し部隊も結構あります。


こうした東方部隊はソ連打倒のため結成したものの、信用の問題から大部分は最前線ではなく、後方における警備やパルチザンとの戦闘に投入する程度でした。
43年7月のツィタデレ作戦時には戦線外れの防備を担当していたごく一部の東方大隊が反逆・脱走したため、最高指令部は作戦失敗の一因は端から信用できなかった東方部隊のせいでもあると責任転嫁。
ヒトラーは激怒しましたが、『裏切った東方部隊が作戦失敗の一因であり、東方部隊の全てが悪いし疑わしい』という怒りではなく『一体何故、私が知らない内に我が軍にそれ程多数の東方部隊が存在し、大量に投入されているのか』という点で怒ったようですw

そして、東方部隊全てを武装解除し、東部戦線から外して占領下の西ヨーロッパ諸国の炭鉱で強制労働にせよと命令。
しかし43年中盤の段階で、訓練が終了し東部戦線各地に分散展開する東方部隊は50万人以上いたため、流石に全て武装解除は色々と無理。
それ以前に、そんなことしたら反感を抱いて、ドイツ国内や占領地で労働させている東方労働者たちも含めて一斉蜂起されかねません。
何とかヒトラーを説得し武装解除と強制労働の命令は撤回させるも、殆どの部隊は西ヨーロッパでの守備や防壁建造、もしくはユーゴやイタリアでのパルチザン掃討などの後方任務にあたらせ、最前線でソ連正規軍との戦闘には投入しない方針に。
というわけで、殆どの部隊はソ連正規軍と一戦もせず後方に下げられました。

元から扱いが雑だったものが更に扱いが悪くなり、44年のノルマンディー上陸以降の西部戦線では時間稼ぎのための捨て駒として磨り潰されます。
フランスに駐屯する東方大隊は200個近い数だったんですがね…w

Wikiにもありますが、先程述べたように恨みのあるソ連軍を倒すためor帰れるとこがないからなし崩し的にといった理由等で東方部隊に入ったのに、フランスでドイツ軍のために特に恨みもない米英軍と戦うなんてたまったもんじゃないので、元々士気がドン底まで下がっていたのもあって米英軍に次々と降伏。

ただし、勇敢に奮闘する部隊もありました。古いながらも参考になる『イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~』という書籍にあった一例には、粘り強く抗戦するロシア人大隊を包囲した米軍が「いま降伏すれば、すぐ祖国に返してやる」と呼び掛けたら、より頑強に抗戦したんだとか。
生き残ってソ連に戻されたところでソ連政府に許されるわけがなく、粛清されると覚り絶望してがむしゃらに戦ったのでしょう…w


東方部隊は各地で赤軍の報復を恐れて最後まで戦ったり、ひたすら逃げまくったり、反乱起こしてドイツ兵をぶっ殺して何とか赦しを乞おうとしたり、全てを諦めて投降したり。
西部戦線にいた部隊は、西側に降伏すれば助かるという希望にすがって米英軍に投降。
しかし、西側はソ連出身の反逆者引渡し要求にOK出していたので、気付いたら赤軍に引渡されていて絶望のあまり自殺する者も少なくなかったとか…
ほんの一握りが様々なツテで西側への亡命に成功しますが、大半は失敗しています。
戦後、赤軍の捕虜になったり西側から引渡された東方部隊はじめ、枢軸国側に寝返った将兵のほぼ全てが国家反逆罪等で有罪となりました。
一部の運の良い者は国外追放となるも、大部分は処刑もしくはシベリアでの労働刑。
非公開で弁護人なしで略式の即決裁判が殆どで、ソ連にとっては消し去りたい存在であるため、どれ程の数の『裏切り者』が処分されたのかは未だ不明。100万人単位で存在していたにも関わらず、歴史から抹消されました。

↑絞首刑となったウラソフやクラスノフはじめ対独協力の指導者たち。
シベリアに流刑となった集団で、スターリンの死後も生き残っていた者は特赦として減刑され、釈放されたそうですが、いったいどれ程生き残ったのか…w
近年になって彼らの行動を見直す風潮も少なからずあるようですが、今だ反逆者、裏切り者のレッテルを貼られています。


歴史の波に狂わされた、哀れで惨めな末路です…w
めでたしめでたし()





  各国・民族袖章
●1枚目(左)。
16,トルキスタン 1st K
17,トルキスタン 2nd K
18,トルキスタン 3rd(装着例滅多になし) K
19,アゼルバイジャン 1st K
20,ロシア解放軍 R
21,ロシア解放軍(バリエーション違い) R
22,ウクライナ解放軍 R
23,シベリア・コサック R
24,テレク・コサック R
25,クバン・コサック R
26,ドン・コサック R
27,ウクライナ(不採用?) R

●2枚目(右)。
5,ドン・コサック第1師団 R
6,ロシア(不採用?) R
7,アルメニア K
8,カルムィク(装着例なし?) K
9,ヴォルガ・タタール 2nd K
10,クリミア・タタール(不明) K
11,ウクライナ解放軍(バリエーション違い) R
12,第1ロシア国軍 R
13,テレク・コサック(初期のバリエーション) R
14,北カフカス K
15,ヴォルガ・タタール 1st K
16,クバン・コサック(初期のバリエーション) R
17,グルジア K
18,ヴォルガ・タタール 3rd(装着例なし?) K
19,アゼルバイジャン 2nd(不採用?) K
20,間違い(文字がアルメニアになってますが、ほんとは北カフカスの初期バリエーション) K

古いイラストのため、あまり正確ではありません。
国家・民族袖章の装用位置はRはロシアスラブ系で左袖、Kはカフカス系で右袖。どちらもすべて上腕装用。
ただし、カフカス系はまず確実に右袖装用ですが、ロシアスラブ系は所属部隊(連隊等)識別のため右袖装用の場合があります。

ちなみに、2枚目下半分の階級章はカフカス系義勇部隊向けに考案されたものですが、採用されず終いでした。



参考
http://en.wikipedia.org/wiki/Ostlegionen
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Gliederungen/Infanterie.htm
http://www.wehrmacht-awards.com/forums/index.php
http://www.axishistory.com/
http://reibert.info/#drugie-formirovanija-i-armii.24
イルジオン ~ヒトラーの側で戦った赤軍兵たちの物語~』  


Posted by ジェレミア at 19:03Comments(0)東方部隊の各種民族部隊

2013年11月18日

グルジア(ジョージア)人義勇部隊

最近色々イベントやら私事で更新しとりませんでした。

さて今回はグルジア人義勇部隊。
グルジア人義勇部隊は、第2次大戦以前の1921年の旧グルジア民主共和国崩壊によって赤軍から逃れてきた白軍派亡命者たちを中核に、1941年の12月に「グルジア軍団」を設立。
大半の構成員はドイツ軍の捕虜になった後、ドイツ側に転向したグルジア人の元赤軍将兵でした。
1942年2月からこのグルジア軍団の傘下に戦闘部隊として第795、796、797、798、799、822、823、824歩兵大隊及び I./1、II./4、II./198、I./298野戦大隊の全13個大隊が編成されました。(※1)
いくつかの大隊は後々に壊滅したり解散させられています。

他の東方部隊の例に漏れず、その任務は戦線後方での治安維持や西方の防壁建造・防衛などが主でした。

これは袖章。

短命に終わった旧グルジア民主共和国の国旗がモチーフで、GEORGIENの文字。BeVoタイプとプリントタイプが存在。


階級章は以前紹介したカフカス系義勇兵の階級章で、民族色はピンク。
一応、ロシア解放軍などと同型の濃緑色角形肩章のピンク色パイピング版が制定されていますが、支給されてないらしく使用例がありません。基本的に肩章は『普通のドイツ陸軍』の歩兵科(白パイピング)のものが殆ど。たまーに『普通のドイツ軍』の使用するパイピング色の肩章も流用してたらしく、グルジアはピンクなので装甲部隊の野戦服用の肩章(フェルトグラウにピンクのパイピング)も使用している模様。

襟章も以前紹介した濃緑やフェルトグラウ色ベースの平行四辺形もしくは台形のものの外周にピンク色パイピングを施したもの。
ただ、一部の将兵は明らかにベース色が濃緑でもフェルトグラウでもない色の写真もあります。

白黒なので全くわかりませんが、赤かピンクなのかなぁと…


ロシアのReibertというサイトがかなり写真や情報が豊富ですが、ロシア語なのでGoogle翻訳程度ではキャプションは殆ど意味不明…
http://reibert.info/#drugie-formirovanija-i-armii.24

グルジアのサイトは更に意味不明…w
http://forum.ge/?f=9&showtopic=33937004&st=0
http://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/5464

とりあえず所属不明ばかりですが、いくつか写真を。

グルジア軍団の指導者であるShalva Maglakelidze大佐(44年には少将)。1942年、ウクライナのチェルニーヒウで撮影。

42年型野戦服を着用し、襟章やアドラーはなく肩章は帝政ロシア型(帝政ロシア軍肩章は2本線で無星は大佐)。
山岳帽?もアドラーはなく、ドイツ軍の金属製コカルデのみ。


グルジア国旗を掲げ、整列した将兵たち。1943年、ドイツ国内で撮影。

手前3人がグルジア人で、手前から上等兵、二等兵(旗手)、伍長。
42年型野戦服に英軍P37ベルト。
奥の将校と下士官たちは恐らくドイツ人ですが、クラッシュキャップ被った尉官の服が謎…
短い丈、胸ポケットなし、切れ込み式腰ポケットというスタイルは空軍フリーガーブルゼのようですが、濃緑襟で服自体の色も周りと大差ないので1次大戦時の野戦服みたいです…
模して仕立てた服なんでしょうが、よくわかりません。


第795歩兵大隊" Shalva Maglakelidze" 所属の、左はGruppenführer(分隊指揮官:伍長)、右はZugführer(小隊指揮官:上級軍曹※2)。

2人とも36年型野戦服を着用。
伍長は第2ボタンに東方メダル2級の銀章と銅章(もしかしたら東部戦線従軍章?)のリボン、左胸に戦傷章を佩用。
拳銃は2人ともポーランドのラドムM1935あたりかと。


日時・部隊全く不明の一枚。

42年型らしき野戦服に、兵にしては珍しく細長タイプの襟章。
襟の色が野戦服に比べ明るすぎなため、赤かピンクの生地製?


40年型コート姿の二等兵。1943年2月撮影で場所不明。

略帽はソ連軍のものかそれに近い形状のものを無記章で被り、英軍P37ベルトという出で立ち。


コートを着た義勇兵。日時・部隊不明。

コートは前合わせやボタンからして外国軍のもの。略帽もドイツ陸軍のものではないようですが、トップの飛び出し方が異常ですw


どや顔な二等兵。1944年、フランス南部のカストルでの撮影。

41年型以降の6個ボタンの野戦服で、標準的なドイツ軍記章スタイルに義勇兵袖章だけつけてる例。
左胸に歩兵突撃章らしき勲章の一部が見えますが不鮮明。


2人の二等兵。上に同じく1944年、フランス南部のカストルでの記念撮影。

2人ともグルジア袖章すらつけてません。
それ以上に謎なのは、左の二等兵の肩章がパイピング無しの角型肩章、肩章ボタンの模様、アドラー刺繍糸が白やグレーには見えない点、襟章の中央線が白で両サイドの方がそれより濃い色に見える点など、海軍にしか見えないところ。
謎…


所属不明ですが、43年フランスのランスでの一枚。

上等兵ですがMP40なんてマトモな武器もらってます。


第795歩兵大隊の二等兵。1944年のフランスで撮影。

正規軍かレジスタンスかはわかりませんが戦闘後の撮影で、左手を負傷したようです。
かなり毛落ちした40年型野戦服に標準的な義勇記章、野戦装備です。


ちょっと謎な一枚。

この伍長さんの規格帽、鍔が角型…?
写真の背景カットの仕方の問題かと思いましたが、一応縫い目が見えます。
こんな鍔あるのか…?もしかしたら42年型略帽に鍔を付け足したのでしょうか。
服装はいたって普通な42年型野戦服。第2ボタンに2級東方メダルの銀章と銅章。


これもちょっと謎な一枚。

同じく伍長で41年型らしき野戦服を着用していますが、胸アドラーが謎。
胸アドラーにしては小さめに見え、何より折り込み方が44年型みたいな逆三角形。
略帽用のアドラーか何かを簡単に折り込んで縫い付けたのかもしれませんが、理由不明。


最初に載せた記念写真。

1942年頃だそうで。
前列右の最上位の人物はGiorgi Maglakelidze大尉。よさげな将校服に革張り付き乗馬ズボンと、金かけた格好。東方メダル2級銅章のメダルとリボン両方を佩用。
後列コートの人物は少尉か中尉、前列左は上級軍曹、他は伍長。
全員が36年型や改造42年型で濃緑襟で、襟章のバリエーションも後列右から2番目の伍長以外は将校に多い仕様の細長タイプをつけた珍しい例。


5人組の記念写真。II/198野戦大隊の兵たちで、撮影時期不明。

前列中央が上等兵で他は二等兵。
前列向かって左の二等兵はオランダ改造服で、あとは42年型野戦服着用。
後列右の二等兵のベルトが謎…
キャンバスと革で出来てるようですが、どこの国の何のベルトかご存知の方がいらっしゃいましたら教えて下さいw


何かしらの集合写真。

前列中央の野戦服姿の人物は大尉、他の座ってる面々および中列右から2番目の野戦服姿の人物は下士官クラス。
何人かコート左上腕に2本もしくは3本のトレッセをつけていますが、階級章なのか技能・職種章なのか不明。
また、この写真でも謎のベルトを締めてるのが何人かいます。


訓練中の兵士たち。1941年末、ルーマニアでの撮影。


転向してすぐのためか、義勇兵記章の類いは一切なし(というかまだ制定してない?)。
36年型や40年型野戦服を着用し、ズボンはドリル生地の作業着、しかも白のもの。
略帽にはソータッシェがついてたりついてなかったりで、帽章も年式にばらつきが。しかも何人かはソータッシェの色が違います。
グルジア人なのは確かだそうですが、グルジアはグルジアでもベルクマン特務隊のグルジア人中隊の訓練風景かもしれません。


行進中の兵士たち。

見える範囲の全員が43年型野戦服を着用し、DP28やナガン小銃を装備。
ベルトもおそらく全員が英軍P37で、ソ連軍弾盒。雑嚢代わりのソ連軍ガスマスクバッグを下げてます。


整列した分隊。

手前の3人が機銃班で、他は小銃手。
全員42・43年型野戦服を着用しヘルムも半分は42年型で比較的新しい装備ですが、ベルトはP37。
一番手前が機銃手でDP28と拳銃を装備。2・3番目は弾薬手のため小銃は装備せず、DP28用の鉄製の皿マガジン弾薬箱を装備。
小銃手たちは着剣したモシンナガンを装備。弾盒はソ連軍のもの。
階級は全員二等兵のため、分隊長は写ってない模様。


DP28の射撃訓練風景。

丁度射撃姿勢に入って弾薬手から皿マガジンを受け取って装填してるところの模様。
ここでも全員がP37ベルトを絞めてます。
これだけ軽機が並んでると壮観です。


マキシム重機関銃の銃身交換中の一枚。

機銃手ぐらいしか見えませんが42年型を着た二等兵。
ベルトリンクを汚さないよう、ツェルトバーンを下に敷いています。


上と同じような情景。

弾薬手は2人ともヘルムに地味に偽装をしていますw
機銃手と左弾薬手(ベルトリンク受け係)は英軍P37ベルト、右弾薬手(ベルトリンク送り係)はソ連軍のものらしきベルトをしてます。
また、3人ともソ連軍ガスマスクバッグを雑嚢代わりに使用。


44年フランスでの1枚。

マキシム重機関銃の対空銃座を視察中の将官。
将官は全く知識ありませんが、奇抜な台形カットの将官襟章や妙な形のアドラーや勲章なんかで詳しい方はすぐわかるんじゃないかと。


43年6~8月、ポーランドにおける第822歩兵大隊" Königin Tamara(タマラ女王)" の兵士たち。

後々にテッセルの反乱を起こす連中。
前列手前2人が伍長で3番目は上等兵、あとは二等兵。36年型や40年型、オランダ改造服などバラバラで、武器もバラバラw


こちらも時期不明ながらテッセル島での第822大隊の一枚。

先頭の3人はチェルケスカというカフカス地方の伝統的衣装、パパーカ(毛皮帽)、キンジャール(短刀)という出で立ちです。このスタイルはコサックでも用いられています。


ノルマンディー上陸作戦の44年6月時点では、所謂ユタ・ビーチの防御にあたっていた第709歩兵師団の配下に第795および797歩兵大隊、チャンネル諸島のガーンジー島に第823歩兵大隊、フランス中央部のリモージュ近郊に第798歩兵大隊が駐屯しています。
ノルマンディー戦では、本来は共産主義との戦いを望んで転向したのに、全く無関係な西ヨーロッパに送られたうえにレジスタンス討伐や建設作業に従事させられ士気は下がり、挙句の果て突如上陸してきた米英軍を迎え撃てと言われても、なんの意義も見いだせずにさっさと降伏しています。
まぁ当然でしょうねw
以下はノルマンディーで捕虜になったグルジア義勇兵。

これはРОАの義勇兵と纏められてます。
襟章の違いがよくわかります。


バンザーイな感じで投降してる兵隊。

米空挺隊員に投降した瞬間…ぽく撮ったヤラセ写真臭がプンプン。


馬車で後送されるところ。

795大隊の兵士だそうで。命拾いして安堵しつつも、この後どうなるのかという不安が入り混じった微妙な表情w
右の馬車から足ぶらつかせてる略帽の兵はオランダ改造服、一番高い位置にいる兵が41年型らしき野戦服、棒を杖代わりにした負傷兵と馬車のもう1人は43年型らしき野戦服、負傷兵に付き添ってる兵は綿製の作業服と、やはりバラバラな格好。


米兵にベラベラしゃべってる最中。


ロシア人ならまだしも、グルジア人なんて通訳なんざ殆どいるとは思えないので、尋問はさぞ難しかったでしょう…w


そして、この将校さん。

第795大隊のLomtatidze中尉。44年3月撮影。
義勇将校の分際で、なんだか良さげな仕立ての服(改造野戦服?)やクラッシュキャップに高価なモール製記章という、結構金かかってそうな格好です。めずらしく完全なドイツ人将校記章を使用してます。名前や顔つきがドイツ人ではないので民族ドイツ人なのか、給料使って良い服を私費購入したのか…w
左胸の3連略綬は恐らくですが、東方メダル金・銀・銅章を各1で全て剣付。

そしてこのLomtatidze中尉もノルマンディーで米空挺の捕虜に。

尋問受けて、ちゃっかり情報提供。



ちなみに、グルジア人部隊は惨めな東方部隊を代表してプラモ化もされてます。

ご存知の方も多いと思いますが、ドラゴン社のグルジア義勇兵降伏セット。
モールドは一般的なドイツ軍歩兵ですが、降伏するドイツ兵のキットなら普通のドイツ兵でも良いものを、わざわざグルジア義勇兵のパッケージ絵にして出すあたりが…w





今度はグルジア人部隊に基幹要員兼お目付け役として配属されたドイツ人将兵の写真。

ドイツ人大尉(左)とグルジア人上級軍曹(右)。

2人とも改造野戦服のようですが、付けてる記章が違うだけで見栄えが違いますw


砲隊鏡を覗いている少尉さん。

演習中と思われます。
光の加減で何とも言えませんが、36年型と思われる濃緑襟野戦服を着用。縫込み肩章にしてる割に襟章が兵用のままです。
鋲付乗馬ブーツに拍車がついてて格好いいw


結構オシャレさんなUnteroffizier(伍長)。

42年型野戦服を濃緑襟改造して台布付の兵科色入り襟章をつけ、濃緑ベースの胸アドラーや角型肩章といった古参気取りさんですね。


こちらは中隊先任下士官のFeldwebel(軍曹)。

上の伍長とうってかわって、あまり飾り気のない40年型野戦服着用してますが、一次大戦従軍者で略章付2級鉄十字や東部戦線従軍章を含む4連略綬など、かなりのベテランさんです。


こちらも階級不明ながら中隊先任下士官(右)とFeldwebel(左)。

2人とも42年型らしき野戦服を着用。


退避壕か何かの入口にいるObergefreiter(兵長)。

何ともいえませんが41年型以降の6つボタン野戦服を濃緑襟改造したものに台布付襟章や濃緑肩章、濃緑ベースの袖階級章を付けています。


こういった義勇部隊配属のドイツ人将兵と義勇兵たちのコミュニケーションはとても大変。
文化や習慣、宗教、言語が違うため、かなり苦労したと思います。
そして最低限の会話や命令ができるように発行されたのがこの通訳本。
これはグルジア語版。


こちらはロシア語版。

他の言語版もあり、どれも3000語の単語が載っていて、単語はドイツ語(ABC順)→その国の言語の表記→ドイツ語での発音表記がそれぞれ記入されています。
内容はまた別の機会にでも。




そして最後に、グルジア人部隊の中で最も有名(?)なのはテッセル島の反乱を起こした第822歩兵大隊。

反乱の流れは一応wikiに載ってます。
タイトルからwikiならではの微妙な表現や間違い等がありますが…
てか、こんなん日本語にする前に東方部隊の日本語版作ってほしいですわ。

約800人のグルジア義勇兵が、同じ兵舎の400人程度のドイツ人陸軍部隊の寝込みをナイフやこん棒で襲撃して武器を奪取し、ほぼ皆殺しだったそうな…

822大隊指揮官Klaus Breitner少佐。


反乱時は運よく難を逃れた数少ないドイツ人で、グルジア人たちの反逆に対し激おこぷんぷん丸状態で鎮圧作戦を指揮したようです。

この人物が反乱の首謀者の1人であるSchalwa Loladse少尉(享年29歳…には見えないw)。


元ソ連空軍航空科(!)の大尉殿で、1942年に撃墜され捕虜になりグルジア義勇部隊に志願したそうで。
少尉としてテッセル島の822大隊に配属され反乱を主導、反乱中盤の4月25日戦死w


ちなみに、反乱の数か月前にSchalwa Loladse 少尉や別の反乱主導者Asilius Indschia 中尉をはじめ、何名かの義勇兵たちに対して、Klaus Breitner 少佐の手で東方義勇メダルの授与が行われております。



右がLoladse 少尉、左がIndschia 中尉。

ドイツ軍にとって、正直頼りない存在で最初から反乱の可能性がある義勇兵をそもそも当てにしてなかったとはいえ、いざ反逆されたら本来の敵である米英やソ連より敵意や憎悪が湧いたことでしょうw


島内のレジスタンスと合流し島の制圧にかかるも、南北の沿岸砲陣地の制圧に失敗し、その間にオランダ本土から2000人もの海軍歩兵と装甲車両が上陸し、かなりの激戦となったようです。

終戦直前の段階で、こんな辺境に配備された上陸用の船舶や海軍の装甲車両がどれほど貧弱だったか気になりますが…w

北部の灯台は最終局面でグルジア義勇兵たちが立て籠って最後の組織的抵抗をしたそうです。
これは現在。


鎮圧直後w

縦に3つ並んだ窓を銃眼として使用したようですが、そこに集中射撃を受けボロボロです。

灯台での最後の組織的抵抗が鎮圧された後は、個人・小グループで島内各地に潜伏する義勇兵らの掃討に移行。

殆どは捕まったら墓穴掘らされて処刑w

そして掃討戦を生き残った200人ほどもソ連に引き渡されてシベリア流刑…



めでたしめでたし。




※1
1944年10月の時点で、東方部隊は全国家・民族合わせて96万8000人。
うち、ロシアが31万、ウクライナが25万、トルキスタンが18万、カフカス諸国が11万、コサックが5万3000、ヴォルガ・タタールが4万、クリム・タタールが2万、カルムィクが5000という内訳。
更にカフカス諸国の内訳は約4万8600人が独立した「野戦大隊」、約2万5000人がドイツ人師団配下の「歩兵大隊」、2万1595人が建設部隊、約7000人が武装SS、および空軍となっています。

野戦大隊と歩兵大隊との違いですが、全ての東方民族部隊の上級組織として、グルジア軍団とかアルメニア軍団とかアゼルバイジャン軍団とかの各民族ごとの軍団は形式上は存在するものの、その軍団司令部には直接の指揮権がありませんでした。
各軍団の兵力は殆ど全てが大隊規模に切り分けられ、各大隊はドイツ陸軍各方面の軍や軍集団司令部管理下で独立運用された独立野戦大隊となりました。

この野戦大隊から抽出されたのか、全く別ルートで編成されたのかは分かりませんが、同じような大隊でもドイツ人師団の配下に組み込まれたのが歩兵大隊です。
とはいっても全歩兵大隊がドイツ人師団に組み込まれたわけでもないようです。
野戦大隊もドイツ人師団に組み込まれてたりしますし。
ぶっちゃけ、ほぼ名称だけの違いなのかなぁとw
とりあえず、1個大隊は4~5中隊で構成され最大で800人程の規模でした。

このあたりは友人のハルトマンがドイツ語に堪能なため、lexikonを色々と翻訳してもらいました。感謝感謝。



※2
以前の記章に関する記事で襟章全周をトレッセで囲んだ階級章は少尉としていました。
が、改めて色々な写真見てると、以前から疑問に思っていた比較的有名なトルキスタン部隊のシュピース(中隊先任下士官)の袖線をつけた写真がこの階級章です。


これは北カフカス部隊。


いくつかある階級章一覧では、義勇兵の階級名称としてはZugführer(小隊指揮官)で統一されているものの、これにあてはまるドイツ軍の階級が資料によってはLeutnant(少尉)もしくはOberfeldwebel(上級軍曹:個人的訳)となっています。
少尉が小隊長となるのは当然として、Oberfeldwebelも小隊指揮をとる階級です。
また、テッセルの反乱の主導者のSchalwa Loladseもドイツ語でLeutnant 、英語でもsecond lieutenant と、日本語でいう少尉となっております。(写真通りで昇進してなければですが…)
まぁこれなら義勇兵の将校クラスは少尉~大尉のみとなり、東方大隊の大隊長は必ずドイツ人であるべきなのに義勇兵に少佐まで存在する矛盾は解消できます。

ただ、このZugführerの1つ上の階級はStellvertretender Kompanieführer (副中隊指揮官)、更に上の階級はKompanieführer (中隊指揮官)、Battalionführer (大隊指揮官)となっております。順当に考えれば中尉、大尉、少佐となってしまい、Zugführer は少尉となってしまいます。
とはいっても、最大の疑問点であるシュピース袖線つけてる説明がつきません。肩章の2本トレッセを袖にもつけてる変則例かとも思いましたが、変則例でも袖全周にトレッセを巻くことはありません。
それに、Zugführer が少尉だったとしても、中尉~少佐の肩章と少尉の肩章が別物ってのもなんだかしっくりきません。
規模や編成内容によっては本来の階級ごとの役職と異なる場合が多分にあるので、義勇部隊もそういった例なのかも…


…正直、書いてて自分でも分からなくなってきましたw
そもそも帝政ロシアやソビエトのように尉官4階級制なのかなぁ…とも思いましたが、やはりシュピース袖線つけてるのがネックで確信もてません。

とりあえずは、自分のブログでは今後Zugführer は下士官の最高階級にしとこうかなぁと思います。


追記
今さらながらこの「グルジア」が「ジョージア」になっちゃいましたねw
名前変更面倒なので、タイトルだけジョージアにしときます()


参考サイト
http://www.lexikon-der-wehrmacht.de/Gliederungen/Infanterie.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/The_Georgian_Legion_(1941-1945)
http://reibert.info/#drugie-formirovanija-i-armii.24
http://forum.ge/?f=9&showtopic=33937004&st=0
http://dspace.nplg.gov.ge/handle/1234/5464

  


Posted by ジェレミア at 15:08Comments(0)東方部隊の各種民族部隊

2013年06月11日

Schutzmannschaft

Schuma(シューマ)は正式名のSchutzmannschaft(シュッツマン・シャフト)の略で、直訳としては『警官隊』ですが任務内容的に意訳としては『補助警察』等。まぁ略称のシューマの方が一般的ですが。

1941年の独ソ戦開始以降ドイツの支配地域の広がりは凄まじく、警察をはじめとしたドイツ全軍のありとあらゆる治安部隊を動員して後方地域の治安維持に充てていました。
しかし広大な占領地全域をカバーするだけの余裕なんて当然ありません。
かといって日々増加するパルチザンの脅威は無視できません。
そこで41年7月末、占領地域の元警察官や町村の自警団、志願者等の対独協力者によって編成された、ドイツの治安部隊の補助任務を受け持つ組織を作ることになりました。

秩序警察及び保安警察の管轄下にある警察組織であり、国防軍最高司令部管轄下の東方部隊のような戦闘部隊とは全く別組織です。
最初は秩序警察の管轄下にありましたが、すぐに保安警察の管轄となりました。

東方部隊と同じく、基本的には大隊規模で編成。
1個大隊500人前後で編成され、指揮官の半分はドイツ人警察将校・下士官が受け持ち、他は現地人指揮官でした。
ロシア、ウクライナ、ベラルーシ、エストニア、リトアニア、ラトビア、ポーランド、タタール民族、コサック民族によるシューマ大隊は全部で200個大隊以上も存在しました。

任務内容は 、戦線後方におけるパルチザン掃討作戦や治安維持活動、ユダヤ人等の敵性・危険人物狩り等。

シューマの面白いところは服装。

先に述べたように陸軍管轄ではなく警察、つまりSSの管轄でした。
故に補給元もSS。
しかし、ことに武装SSは独ソ戦開始の時期は組織拡大真っ最中。
中古被服引っ張り出せば何とかなる陸軍の東方部隊と違って、小規模な組織で生産体制も整っていないSSには、こんなヘボ蛮族義勇補助治安部隊ごときにまとまった数のフィールドグレー(緑灰色)の被服を支給できるほど余裕はありません。
一方そんな時期、ドイツ国内ではナチス=黒服なイメージ元である一般SSの隊員たち(常勤・非常勤とも)が続々と徴兵され、彼らが使っていた中古の黒服が山積みになりました。

これは利用するしかないと言わんばかりにシューマの制服に黒服が採用されます。

その際、稀に無改造の黒服もありますが、大半は上着の襟・腰ポケットのフラップ(蓋)・袖の折り返し部分に緑色(警察緑)もしくは灰色等のウール生地が上貼りされ、更に胸ポケットを排除した(してないものもある)状態で支給されました。
確かな理由までは調べきれてませんが、一番損耗しやすい箇所を補修して再支給する際に統一性を高めるためのスタイルなのかなぁと。
もともと野戦を前提としない警察の補助部隊のため、野戦じゃ目立ってしょうがない役立たずな中古黒服の在庫一斉処分も兼ねてたので仕方ないでしょうw


基本的にこやつらには特に記章が存在しません(ベラルーシとバルト三国は記章あり)。

普通は左袖下腕に線で表す階級章をつけるくらい。
線はトレッセですが、陸軍35年型礼服の下士官用の太いトレッセ(通常トレッセの約2倍の太さ)や同じ幅の初期SSトレッセを使用。
下が改造黒服での階級章一覧。

SSや警察とも全く異なる階級呼称であるため、訳し方に非常に悩むため訳せませんw
とりあえず( )内が相当する陸軍の階級です。陸軍階級の訳は個人的な訳し方なので気にしないで下さいw
0:Schutzmann (Schütze -二等兵)
1:Unterkorporal (Gefreiter -上等兵)
2:Vizekorporal (Obergefreiter -兵長)
3:Korporal (Unteroffizier -伍長)
4:Vizefeldwebel (Unterfeldwebel -下級軍曹)
5:Kompaniefeldwebel (Feldwebel-軍曹)
ちなみに0番は表になってないというか、何も付きません。
無理に訳するなら下から巡査、下級巡査長、巡査長補、巡査長、巡査部長補、巡査部長…とか?w
将校用の階級章は存在せず、黒服のほかSS野戦服や警察関係服等にSSもしくは警察の肩章を着けるようです。

他には左袖上腕に、緑や白の生地に″ Im Dienst der Sicherheitspolizei ″ (保安警察勤務者)や似たような保安警察関係の文字がプリントされた腕章を部隊によってつけてるくらい。


また、バルト諸国はもともと自国の軍や警察で使われていた帽章を、SSの黒略帽や警察略帽、自国略帽につけています。

この改造黒服は正装時や常勤時は主に白のワイシャツを来て黒系ネクタイをするようですが、パトロール等の行動時はワイシャツは着ずに直に黒服を着ています。
まぁワイシャツ着用してる写真も白以外だったり柄ネクタイしてたりと適当だったりもしますw

エストニア人シューマ隊員たち。

典型的な改造黒服。
左袖の袖章はエストニア国家章。コカルデ付きの略帽。

これも典型例。


小銃訓練中のウクライナ人シューマ隊員。


ラトビア人シューマ隊員。

上半身しか見えませんが…


SSデカール付きのヘルム被ったシューマ隊員。

武装SS用の肩章らしきものをつけてるみたいですが、不明。


ワルシャワでの一枚。

キャプションを見落としたので確証持てませんが、右から2番目の将官は服装からしてユルゲン・シュトロープ少将かと思います。
恐らく43年のワルシャワ・ゲットー蜂起時の鎮圧作戦中の写真かと。
シューマは冬用のコートも黒服で、改造箇所も同じです。
が、左と右端の隊員は無改造コート着用。皆、モシンナガン小銃で武装しています。
真ん中の背向けてるのは警察将校で、多分このシューマ隊員たちの指揮官。


整列中のシューマ隊員。

これも全員が黒コート着用で、全て上貼り改造済みのもの。


マキシム重機関銃運用中のシューマ隊員。

左袖にチラッと見える袖章は多分エストニア国家章。
機銃手はギムナスチョルカのズボンを履いてるようです。


エストニア人シューマ隊員の一枚。

なかなかお目にかかれない最高階級者です。
記念写真なのか正装してます。


チンピラじみた顔つきのシューマ隊員。

柄ネクタイがキモ格好いいです。
帽章はどこのやつだか忘れました…
エストニアの隊員です。

ベラルーシ人シューマ隊員たち。

この町の市長か何かでしょうか、偉いさんに捧げ銃で閲兵を受けてます。
ベラルーシ人シューマ用の襟章(東方教会の十字が刺繍されたもの)をつけた黒服で、98kを装備しています。


ベラルーシ・シューマ吹奏楽隊の写真。

移動の最中ですが、トランペット(コルネット?)やチューバを持っています。
後述する過渡期のためか肩章をつけてます。


こっちは演奏中。

多分前の写真とは一連のものかと。
皆、肩章付きの黒服着用。



この黒服スタイルは43年末までシューマの最も一般的な服装となります。
黒服以外にも各国の旧軍・警察制服を使用する例も。

これはエストニア人シューマの将校だそうで。


43年頃にはSSも強制収容所等の生産設備が整い、尚且つ拡充した警察連隊や武装SSが各戦線で使い古したフィールドグレーの各種野戦服が返納され数が揃い始めました。
シューマでも、もともと中古の黒服を更に2年近く常勤服として使用し損耗していたため、順次フィールドグレー系の各種野戦服に更新されていきます。

フィールドグレーの野戦服導入に伴い階級章も更新されます。

今まで左袖だった階級章を両襟に変更。
肩章も導入され、兵・下士官用と将校用の2種となります(細かい階級表示はなし)。


袖には大きな鉤十字を『TREU(忠誠)、TAPFER(勇気)、GEHORSAM(服従)』の文字と月桂樹の葉で囲んだ刺繍の袖章が導入されます。帽子類にも画像上半分の袖章と同じデザイン(文字は無し)の帽章もしくはコカルデをつけます。

黒服からフィールドグレーの野戦服へ変更する過渡期には、一部で改造黒服に肩章や帽章をつけていました。

とりあえず、凄く頭悪そうで厨二臭いデザインの記章です。


ここでややこしい話です。
シューマは保安警察の管轄下になったと書きましたが、秩序警察組織にもシューマが配属?されてました。

Wikiって頂いた方がわかりやすいかと思いますが、ドイツの警察組織は日本とは全くの別物です。
ナチ時代の警察には秩序警察と保安警察があります。
Ordnungspolizei(秩序警察)は日本の制服お巡りさんみたいな組織ですが、一番近いのは秩序警察組織の中のSchutzpolizei(都市警察)。他にGendarmerie(国家地方警察)とか Feuerschutzpolizei(消防警察)とかWasserschutzpolizei (水上警察)とか他にももっと存在します。

次にSicherheitspolizei(保安警察)があり、これは私服警官による刑事・秘密警察組織です。

この各警察組織にそれぞれシューマが配属されていたそうです。というよりは保安警察から秩序警察に派遣してたとでもいうのかな?
とりあえず、所属警察によって襟章自体の色、肩章のパイピングと鉤十字の刺繍、袖章全体の刺繍糸の色が違います。
色の違いはドイツ警察の各組織ごとの兵科色?に準じており、都市警察なら黄緑っぽい緑、国家地方警察ならオレンジ、消防警察ならピンクっぽい赤、保安警察なら暗めの緑といった色です。
ただし、保安警察シューマ記章は全て黒い生地ベースで、肩章の鉤十字刺繍と袖章の刺繍は白糸。肩章のパイピングのみ緑。
秩序警察系シューマは警察緑という警察制服独特の青みの強いフィールドグレー生地に各警察組織色の刺繍です。
上の新型記章一覧の色が違う理由はそんなところです。


上は国家地方警察、下は保安警察。


消防警察用。

これは過渡期の一枚。

黒服に秩序警察系の肩章と袖章をつけてます。

更に、この新型記章には将校の階級章も制定されており、東方部隊と同じく少佐までですが存在します。実例は見たことありませんが…w
将校用記章は所属警察組織に関わらず刺繍は全て銀モールで、襟章には捻り銀モールのパイピングがつき、肩章パイピングも捻り銀モールになります。

これも海外サイトから拝借した写真ですが、良い例なので。
濃緑襟(しかも尖り襟w)に改造した警察野戦服に保安警察シューマ将校(少尉)の記章をつけています。



遅れましたが階級は上から下へ
0:Schutzman(図なし)
1:Unterkorporal
2:Vizekorporal
3:Korporal
4:Vizefeldwebel
5:Kompaniefeldwebel
(ここまでは先と同じで、赤線から下は将校)
6:Zugführer (Leutnant -少尉)
7:Oberzugführer (Oberleutnant -中尉)
8:Kompanieführe (Hauptmann -大尉)
9:Batalionführe (Major -少佐)

4と5は変則例。
階級を表す線は通常幅のトレッセになりました。
襟章の形が違うのは単にバリエーション違い。

黒服更新後の被服はまちまちで、武装SSで使用されていた37~43年型の各種野戦服や警察の野戦服や勤務服が着用されました。

警察野戦服は外観上は陸軍の41年型野戦服に近いデザインですが、先に述べた警察緑色のウール生地で作られ、腰ポケットのプリーツがないのが特徴です。

このイラストでは5個ボタンになってますが、正しくは6個ボタンです。

これはSSの37年型野戦服。

ウクライナ人の保安警察シューマ隊員で、東方義勇メダルを受章してるところだそうで。


(※1)
44年のワルシャワ国内軍蜂起鎮圧作戦でのシューマ隊員。

これもSSの37年型野戦服で、袖のアドラーはそのまま残っていますが2人とも黒略帽で右の隊員は黒乗馬ズボンです。
ドア付近に複数の人が横たわってます。昼寝中でしょうか。

彼女もしくは奥さんとの記念写真。

警察勤務服を着用。警察袖章のままですが。、襟章と肩章はシューマ用で略帽は帽章無し。


エストニア人シューマ隊員。

警察勤務服着用。東方義勇メダル2級銅章リボンと戦傷章をつけてます。
被っているのはオランダ軍のヘルメットで、武装はDP28。

都市警察シューマ隊員。

警察勤務服着用。


また都市警察シューマ。

これも警察勤務服着用で、巡査部長さん。
東方義勇メダル2級の銅章佩用。


これは警察野戦服。

キャプションでは消防警察シューマとなっていました。被っているのは警察山岳帽で、シューマ帽章がついています。


44年末の写真。

何かしらの勲章を受章するところのようで、横列になった4人は手前から1番目はアノラック、2・4番目は警察勤務服、3番目は警察野戦服です。
注目すべきはこの後列。
黒服を着た巡査部長補殿がいます。秩序警察系らしき肩章と袖章付き。
その後ろにも黒服っぽいのがチラッと。多分、古参気取りのためなのかなぁとw


(※2)
時期不明の写真。

これも警察野戦服や武装SSの野戦服着用の隊員が多いなか、左端と右から2番目は黒服を着用してます。
人間らしきものが幾つか横たわっているように見えますが、まさかパルチザンではないでしょう。多分。


ちなみに、44年7月に壊滅したウクライナ・ベラルーシ人シューマ大隊をかき集めて編成されたシューマ旅団『ジークリング』(指揮官ジークリングSS兼警察中佐)を母体にして、44年8月に編成されたのが第30SS擲弾兵師団『ロシア第2』です。
こいつら、9月はじめにレジスタンス掃討のためフランスに送られた途端に脱走兵が続出。
しまいにはウクライナ人の2個大隊1000名程が組織的な反乱を計画。フランスレジスタンスのFFI(フランス国内軍)と内通し、ドイツ人SS将校を殺害して集団で寝返りましたw
しかも、その後は自由フランス軍の外人部隊扱いでドイツ軍と戦い、その功績から戦後すぐにフランス正規軍の正式な外人部隊登録を受け、ソ連への引渡しを免れましたw

レジスタンスが混じってますが、警察服やドイツ軍ヘムトやSSスモッグ(武装SSになってから支給されたもの)を着用してる隊員が見えます。

もちろん、こいつらは一握りの超幸運な連中。
大半は反逆者として処刑なりシベリア送りなりの哀れな末路を辿りました。

えんでw

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Posted by ジェレミア at 18:24Comments(3)その他の義勇組織

2013年04月25日

東方義勇兵の徽章

今回は東方義勇兵の徽章について。

東方義勇兵の階級章等の徽章の類いは本来、それぞれの国家や民族ごとに専用の正式なものをつけさせ、ドイツ軍と明確に区別化するはずでした。
しかし、最終的に100万人近い人員数になった東方義勇兵やHiWiの連中に各々の規格の徽章を支給しきれるほどの余力があるわけがなく、苦肉の策も含め凄まじいバリエーションが存在しています。
もはや現代のクソレプリカですら出来がよく見えてしまう程に酷い素人刺繍のものなど、知らない人が見たらただのゴミでしょう…w


とりあえず、普通のドイツ陸軍の階級章はおおざっぱに言うと兵卒は肩章に差はなく袖の階級章で表し、下士官は肩章と襟周りのトレッセ及び星章の数で表し、将校は襟章と肩章が全く別物になっていきます。

しかし東方部隊は難解。
まずはカフカス系義勇兵の階級章一覧。

下段の右から上段の左にいくほど階級が上がります。
東方義勇兵の場合は専用の袖の階級章は存在しません。
カフカス系は兵卒も下士官も将校も襟章は共通の形状(2種類有り)で、肩章・襟章の階級を表す線は全てドイツ軍の下士官用トレッセ(肩章には稀に礼服用の幅広トレッセの場合有り)。
中尉以上の肩章は初期SSや海軍士官候補生の肩章のような細いタイプ。
襟章・肩章どちらか片方でも見れば階級がすぐわかるシステムです。

訳ですが、階級の厳密な訳や日本語での表し方云々は言い出したらキリがないので、とりあえず個人的な訳で()。
下段右から左に向かって
二等兵、一等兵、上等兵、兵長、伍長。
上段右から左に向かって
軍曹、少尉、中尉、大尉、少佐 上級軍曹、少尉、中尉、大尉。

    
あれ?他の階級は?
となるでしょうが存在しません。
それに一等兵と兵長も表には載っているものの、滅多に存在しません(つまりは下士官・兵は実質4階級のみ)。
少佐大尉以上が無いのは、東方部隊が基本的に大隊以下で編成されるためです。
大隊長は少佐であるため、それ以上の階級を設定する必要がないのです。

東方大隊の各級指揮官は全てドイツ人にせよという総統命令があったものの、将校や下士官全てをドイツ人にするのは無理であるため結局は義勇兵の将校・下士官が多いのが現状でした。
が、大隊長は必ずドイツ人であったため義勇兵用の少佐の階級は制定してはいたものの、実際にはまずいないオチです。
大尉もなかなかいませんが…

襟章のバリエーションとしてはSS襟章と同じか若干大きい平行四辺形のタイプと、陸軍・海軍野戦服の初期の襟章台布のような細長い平行四辺形タイプです。
SS襟章と同じくそれぞれの形状の布芯をニカワ漬したもにウール生地を被せて折り込む製法(細長タイプには機械織タイプも存在)。
ウールの色は36年型野戦服の襟と同じ濃緑のものと、野戦服と同じフェルトグラウのものがあります。

グルジア義勇兵の一枚。

伍長と(左)と少尉上級軍曹(右)。
2人とも濃緑生地のカフカス系義勇襟章です。


これもグルジア義勇兵。こんどは兵卒で真ん中が上等兵、それ以外は二等兵。

見にくいですが、全員カフカス系義勇襟章でフェルトグラウ生地のタイプ。
前列左の二等兵はオランダ軍改造野戦服着用。


アゼルバイジャン義勇兵の戦術の講義か何かの一コマ。

左か1・3番目は伍長、2・4番目は上等兵。
濃緑のカフカス系襟章です。


今度はトルキスタン義勇兵。

これはオランダでの一枚で、右から2番目以外はオランダ軍改造服着用。
襟章は濃緑生地のカフカス系のもの。3人縦ラインが入ってますが、これは変則例で上等兵です。


これもカフカス系襟章のトルキスタン義勇兵3人組。

向かって右の二等兵の襟章はフェルトグラウに見えますが、左の二等兵と真ん中の上等兵は濃緑でもフェルトグラウでも無さげです。
マニアの間では赤ウールでできてるんじゃないかと言われてるみたいですが詳細不明。白黒なんで何とも…


これもトルキスタン義勇兵の上等兵で、細長いタイプのカフカス系襟章。

36年型らしき野戦服で、この襟章も濃緑やフェルトグラウには見えません…
ベルトはダンケルクで大量鹵獲した英軍P37ベルトにソ連のモシン・ナガン弾薬入。


また細長タイプの濃緑生地襟章のトルキスタン義勇兵。

イタリアの写真館で撮影したという4人組の二等兵です。


北カフカス義勇兵の大尉中尉(左)とドイツ人将校(中尉か大尉)の会話中の一枚。

義勇大尉はカフカス系襟章。
これは通常の尉官肩章と義勇将校の肩章の太さの違いがよくわかる写真です。


これが機械織タイプの細長い襟章。

階級は少尉上級軍曹で、後述するパイピング色からグルジア義勇部隊用です。
この襟章の面白いところは、トレッセの模様まで機械織で成形されてることです。



対してPOAやウクライナ、コサック等のロシア系は帝政ロシア式の階級章。

肩章は下士官・兵はカフカス系義勇兵と全く同じシステム。
例によって一等兵と兵長は存在しません。ふってある数字の10と11もほぼ関係なし。
将校は縦線が1本なら尉官、2本なら佐官ですが、星の表示はドイツ軍式で星0→少、星1→中、星2→大の尉・佐各3階級制度です。
将官も帝政ぽく銀モールのテープをジグザグに刺繍(トレッセの場合もあり)したもの。
画像には大将がありますが、義勇軍団のトップの面々は中将以下のため、これも実在はしません。

襟章はカフカス系のように細かな階級を区別しないタイプ。

これはPOAやウクライナ関連の襟章。


これも形状は帝政関連の襟章が元だったような気がしますが、知識不足でよく分かりません…
U字型の布芯を濃緑色のウール生地で覆い中心線に独軍トレッセを縫い付け、野戦服用ボタンもしくは割ピン型のボタン?をつけています。
下士官・兵は共通(この襟章の場合、下士官は襟周りのトレッセをつけない)で尉・佐官は捻り銀モールの縁取り、将官は捻り金モール縁取りです。
なので上の写真は尉・佐官用です。
まぁ襟章自体の形としてはドイツ陸軍と同じシステム(兵・下士官、尉・佐官、将官の3種)ですね。

下士官・兵用には機械織タイプも存在しますが、着用例はさほど多くはないようです。


なんか間抜けなデザインですね…
形が汚いのは加工した人が適当にやったか素人だったのでしょう。
これに捻りモールもしくは何らかのパイピングをつけた将校用も存在。詳細は不明。

本来POAは上記の階級章ですが、カフカス系の階級章をつけてる将兵がちらほらいるので非常に紛らわしいです…

とりあえず着用写真をいくつか。
編成間もない43年初頭のPOA将兵。

どういった経緯なのか、SSの37年型野戦服を着用。略帽もSS用?
POAの袖章と襟章、コカルデがついてますが肩章は不明。


トランプ遊びをするPOAの兵士たち。

新品の43年型野戦服(フル陸軍徽章)にPOA袖章縫い付けて、赤パイピング角形肩章の代用に砲兵肩章(左は歩兵の白のまま)をつけてるようです。


憲兵と会話中のPOA二等兵。

42年型野戦服にPOA用の襟章、肩章、袖章をつけています。肩章は戦前の角形かもしれませんが…
色々な写真見る限り、何だかんだで専用徽章をフルに使用した服を支給される下士官・兵は少ないです。


HiWiの連中?に新聞を読んであげてるPOA中尉のヤラセくさい一枚。中尉はオランダ改服着用。

将校は比較的フルに徽章をつけてる人が多いです。兵より人数少ないし一応は優先的に生産してたのか…?


でもやっぱりドイツ人用の階級章つける将校も多々。
このPOA少尉は肩章がドイツ軍のもの。

たまに見る変則例で右袖にPOA袖章をつけてます。理由は分かりませんw
右袖装用はPOA第1師団の将兵のようです。
右胸のバッジはPOA第1士官学校の卒業者・関係者章。

これは将官。

右はウラソフで左は少佐。
POAは将官が3人だか4人だかのはずなので調べれば一発でしょうが、将官は興味ないのでわかりませんw


次にコサック用襟章。

赤地に交差した白い槍のデザイン。
下士官・兵はそのまま(周囲が濃緑)、将校はこれをトレッセで赤地を囲むように縫ったものを着けます。
画像一番上の周囲が白いものは、トレッセで囲む手間を省いた将校用の1バリエーション。下士官で使ってる場合も稀にあり。
画像のような機械織タイプとローカルメイドの刺繍タイプがあります。


前回も使ったコサックの画像。

肩章は伍長ですがコサック襟章が白縁のものです。

所属不明のコサック二等兵。

かなりくたびれた肩章とコサック襟章。

シベリア・コサックの上等兵。

機械織のコサック襟章で、肩章のトレッセは礼服用の幅広タイプです。
2級東方メダル2つに2級戦功十字と、結構戦功ありますね。

これもシベリア・コサックの上等兵。

肩章が通常のドイツ軍用のものを流用したもののようで、これもトレッセが幅広タイプ。




まだ続きます…

肩章と襟章(カフカス系)にはパイピングがあり、下記のパイピング色によって国家・民族が区別されます。
赤:ロシア、ウクライナ、ドン・コサック
青:テレク・コサック
黄:アルメニア
ピンク:グルジア
緑:アゼルバイジャン
茶色:北カフカス
水色:トルキスタン
白:タタール

ただし、それぞれの民族色の専用肩章が足りず、通常のドイツ軍用肩章で同じパイピング色、もしくは共通兵科色みたく歩兵科の白パイピングの肩章をつけてる場合が多いです。
上記以外の国家・民族は知識不足のため分かりません…


また、それぞれの国旗色に着色された各種帽子用コカルデもあります。
金属製の楕円形帝政タイプ、ウールで楕円形に作られたもの、ドイツ軍の制帽用の金属製円形タイプ(色を変更)の3種類。
ロシア・ウクライナ系や各コサックは楕円形、カフカス系はドイツ軍の円形のコカルデを使用(コサックや一部ロシア系は帝政コカルデをそのまま着ける場合も)。


ざっとこんな感じですが、現場で兵隊が手作りしたローカルメイドから工場で作られたそれなりの品質まで、様々なバリエーションが存在します。
また、こうやって区分していても本来使用しないはずの徽章を使っていたり、結局もともとのドイツ軍徽章を使っていたりと、なかなか紛らわしいことをしてくれてます。

制定されてるからといって必ずしも専用徽章をフルに着けるわけではなく、時期や徽章の生産・在庫・補給状況によってかなりマチマチです。同じ部隊内でも結構バラツキがあります。
特に袖章は比較的つけてる場合が大半ですが、それ以外の専用徽章(襟章や肩章、コカルデ等)はつけてたりつけてなかったりで、その度合いもバラバラ。

しかも、東方部隊ではドイツ兵が着用し新型野戦服と交換・返納した中古野戦服を補修し再支給されてる連中が多く、改造されてたり元々の徽章がそのままだったりひっぺがしてたり…

更にややこしいパターンとしては、カフカス系の連中の場合は襟章の不足が原因なのか、野戦服の襟に階級を表すトレッセを直接着けてる例がチラホラ。


このL字に縫い付けた写真だと下士官に見えるかもしれませんが、上等兵です。


これはPOAの写真ですが、『同じPOAだけど、こんなバリエーションあるよ』といった感じの差異を表してくれてる良い例。

皆上等兵ですが、左から1番目は41年型野戦服の襟にトレッセをL字に直着けで、襟章は初期の濃緑台布付の陸軍襟章。
2番目は36年型野戦服にカフカス系襟章。
3番目は42年型野戦服にPOA用襟章。
4番目は40年型野戦服で元々の陸軍共通兵科襟章。
といった感じで見事にバラバラです。


英軍の捕虜になったドイツ兵の集団。赤い矢印で指してるのが義勇兵(民族不明)。他にもそれっぽいのが何人かいますが、省きます。

2人とも上等兵ですが、手前は襟に直着けで奥はカフカス系襟章です。

民族不明の義勇兵。

トレッセ直着け。F字形なので伍長です。


これは下士官の別バージョン。アルメニア(らしいw)。

これはドイツ人の下士官が使っていた中古服に元々ついてたトレッセをそのまま利用し、トレッセを付け足してカフカス系の伍長の階級章としている例。


同様の階級表示のコサック伍長(左)。




…とまぁ、色々書きましたが、ぶっちゃけ型通りのスタイルよりもそうでないスタイルが多く滅茶苦茶ややこしいですw
東方部隊の軍装等を解説した日本語訳の資料なんて無いので、英語すらまともにできない自分にとってはある程度理解するだけでも苦労しましたw




参考にはならないですが、以下は自分と友人らのイベントやサバゲで義勇兵の格好で遊んでる写真ですw

トルキスタン義勇兵で右から伍長、上等兵、二等兵。


グルジア義勇兵で一番左が上等兵、あとは二等兵。左から2番目と5番目は陸軍の共通兵科襟章のまま。


POAの中尉(左)と少尉(右)


POAの中尉2人と上等兵(右)



長々と書いてこんなオチでゴメンなさい。

えんで!
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2013年04月12日

東方義勇メダル

初回は東方義勇メダルの紹介。

正式名は“ Tapferkeits- und Verdienstauszeichnung für Angehörige der Ostvölker “(東方民族の勇気を讃えるための功労章?)。

東方民族の対独協力者の主に戦闘員向けに1942年7月14日に制定された勲章で、鉤十字や鷲等のナチス成分のないロシアチックなデザインです。
何で制定したかというと、ナチ人種論的に劣等民族の方々に鉄十字等の勲章授与を総統が許さなかったためだそうです。
しかし、あとあとになると何だかんだで鉄十字をはじめドイツ軍の各種勲章類も東方民族に授与しちゃってますが…




金・銀・銅(メダルの色)の3ランク、さらにそれぞれ1級と2級(銅章は2級のみ)、さらにさらに1・2級とも剣付と剣無とがあります。つまりは全10等級(!)
(金章の授与対象は士官以上)


剣の有無の差。3つとも2級で左が剣付金章(色褪せで銀ぽくなってます)、真ん中が剣無銀章、右が剣付銅章。
パッと見じゃわかりませんw
剣の有無の授与基準は直接戦功か間接戦功かの違いによるようですが、実際はどうだったのかは不明。
まぁ戦闘兵科なら剣付です。



1・2級があってそれぞれ剣付と剣無しがあるところはドイツ軍の戦功十字章っぽいですかね。


1級と2級の違いは鉄十字章や戦功十字章と同じように、1級は裏面のピンで胸ポケットに佩用するタイプ、2級はリボンから下げて佩用するタイプです。
もちろん鉄十字等と同じで、2級を飛ばしていきなり1級授与されることはありません。
ただし、2級の場合での金・銀・銅章の色に関してのみ、上級色のものがいきなり授与されることはあります(例:2級銅章を飛ばして2級銀章を受章)。

1級の佩用例。

44年のベラルーシでの通称カミンスキー旅団の指揮官カミンスキー。
1級の鉄十字と東方メダル銀(それぞれの2級は省略)、および戦傷章黒。


詳細不明の白夏服を着たPOA(ロシア解放軍)の将校。
1級の鉄十字と東方メダル(多分銀)、および一般突撃章。略綬はおそらく2級メダル銀章と東部戦線従軍章。
(民族ドイツ人かも)

2級におけるリボン配色は

銅章が緑一色。


銀章はそれの両縁に白線。


金章は赤線。

なんか色違いの例外パターンも少数例あるようですが、ややこしいので割愛。

佩用方式は以下のような感じ。

鉄十字リボン等のようにリボンのみ第2ボタンホールから出して縫い付けるか、略授として胸に佩用。

アゼルバイジャン人部隊の 少尉 上級軍曹。2級の銅章リボンをボタンホールにつけてます。


イタリアに駐屯していたトルキスタン人部隊の、いかにもモンゴリアンな二等兵。先と同じように2級の銅章佩用。



メダル+リボンでぶら下げて佩用するスタイルもあります。

リボンの端に専用ピン(現代でいう造花ピン)や安全ピン等を縫い付けて左胸ポケット上部からぶら下げます。

普通のドイツ軍では鉄十字や戦功十字の2級の授与直後や記念写真にはメダルつけた状態でボタンホールから下げたり、メダルバーではよく見ますが、このメダルは例外。
常勤時にもこの方式で佩用する例が散見されます。


で、鉄十字や戦功十をはじめ、ドイツ軍では基本的に同じ等級の勲章を複数回授章できませんが、この東方メダルは2級メダルの同じ色ならば最高3回まで授章可能でした。
(1級の授章は1回きり)

POA少尉の写真。
向かって左から2級剣付の銀章1、銅章3を佩用。


ドン・コサックのコノノフ中佐(43年時)
これは左から2級の金章1、銀章1、銅章2、更に胸ポケットに1級剣付銀章、ボタンホールに2級鉄十字章を佩用。
2級鉄十字授章の記念写真だそうです。


上記写真の数ヶ月後のコノノフ中佐。
今度は2級鉄十字まで胸からぶら下げてます。
左から銅章、金章、鉄十字、銀章、銅章という不規則さ(本来は向かって左にいくほど高位の勲章になる)。
明らかに見栄えの良さやバランス重視で着けています。
ボタンホールにも上から鉄十字、東方メダル金章、東部戦線従軍章の3連リボンと、色鮮やかです。


まぁこれは凄い例。

せいぜい2級の銀か銅を1~2個佩用が殆どです。

コサックの大尉。2級メダル銀と2級鉄十字章。
先述したように、銅章を授章していなくともいきなり銀章を授章する例。


コサックの伍長。2級メダル銅×2、2級戦功十字。
おそらく2級戦功十字を授与されたところ。


コサックの親分パンヴィッツから2級メダル銀章を授与されるクバン・コサックの伍長。


POAのオルレンコ少尉。2級メダルの銀と銅。


ケストリング大将に戦功を労ってもらってるところ。
これも2級メダルの銀と銅。


44年フランスのPOA士官学校での写真。
東方メダル保持者は全員2級で、右から2番目と左から3番目がボタンホールに銅章リボン。一番右は銅章3つ?の略綬。
座っている中尉は銀章と銅章のメダル付のリボン。その左のコサック中尉は銀章1の銅章2。
この2人と左端は右胸にPOA士官学校バッジもつけてます。

他にも写真はたくさん存在します。
無論、何も授章してないやつが圧倒的多数ですが。



あと、東方メダルは本来の規定では東部戦線従軍章より下位です。
鉄十字や戦功十字の2級は東部戦線従軍章より上位なのに、やっぱり劣等民族扱いw
ちなみに、この東方メダルはドイツ人も授与対象でしたw
ただ、銅章は制限がないものの、銀章を授章資格として既に1・2級鉄十字章を授章しているのが前提だったようです。
劣等民族メダルごときにハードルたけー…w

ステマみたいですが、びみょーな勲章なのでレプリカを扱うショップさんが少なく、国内ではSchmidt & Sohnさんかイベントで個人出店なさってる方のごく一部くらいしか見たことないです…

かくいう自分はSchmidtさんで4つ買ってじゃらじゃらぶら下げて楽しんでます。


えんで!
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2013年04月04日

今更

始めました。
関東圏イベントでオストトルッペンやってるハラーです。

最初はSSの義勇兵に憧れをもっていたのに、どこで道を踏み外したかナチの人種論上では劣等民族にあたるロシアやその周辺諸国の義勇兵が好きになっている今日このごろ。

普通のサバゲや緩めのイベントではいつもどっかしらの民族の義勇兵ですが、真面目なイベントでは一般的なドイツ陸軍歩兵でやってます。

知ってる方も知らない方もどうぞよろしくお願いします。

私、ドイツ語やロシア語以前に英語すらまともにできないため、翻訳が不確実な可能性大です。
翻訳以外でも間違っている部分があると思いますので、内容に間違いがある場合はご指摘頂ければ嬉しいです!
  


Posted by ジェレミア at 15:53Comments(4)自己紹介